1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. マイ・ブルーベリー・ナイツ
  4. 『マイ・ブルーベリー・ナイツ』色彩、詩情、空気……ウォン・カーウァイの美意識が「世界化」した瞬間
『マイ・ブルーベリー・ナイツ』色彩、詩情、空気……ウォン・カーウァイの美意識が「世界化」した瞬間

(C)Block 2 Pictures 2006

『マイ・ブルーベリー・ナイツ』色彩、詩情、空気……ウォン・カーウァイの美意識が「世界化」した瞬間

PAGES


ノラ・ジョーンズありきで企画を立案



 『マイ・ブルーベリー・ナイツ』にはもう1つ、挑戦的な要素がある。それはやはり、ノラ・ジョーンズの起用だ。演技経験がほぼないミュージシャンを主演に迎え、異国での撮影を行う。自らタスクを増やしたようにも思えてしまうのだが、カーウァイ監督にとってジョーンズ以外と組むプランはなかったようだ。


 元々は映画用の音楽を依頼するつもりだったというが、ジョーンズの佇まいと印象的な「声」の虜となり、半ば「当て書き」状態だったとか。カーウァイ監督がインタビュー等で語ったところによると、そもそも英語作品を撮りたかったわけではなく、ノラ・ジョーンズが主演する映画を撮りたかったから舞台がアメリカで英語の作品になった――という流れだそう。彼がよっぽど彼女に惚れ込んでいることがわかるだろう。ハナから、リスクなど存在しなかったわけだ。



『マイ・ブルーベリー・ナイツ』(C)Block 2 Pictures 2006


 ジョーンズ自身の人間性をカメラに収めたいと考えたカーウァイ監督は、演技のレッスンを受講したうえで撮影に臨もうとする彼女に、「そのまま、自然な方が良い」とアドバイスを送ったという。元々彼は撮影現場で得られるインスピレーションを重視しており、本作でも即興を取り入れたメソッドで撮影を進めていったそう。圧倒的なオーラを有しながらも飾らず、等身大の女性らしさを備えたジョーンズは、本作の劇中でも作為的な振る舞いは一切見せず、その場に当然のように溶け込んでいる。


 それはジョーンズだけではなく、レイチェル・ワイズも、ナタリー・ポートマンも、ジュード・ロウにもいえることだ。スクリーンに映し出されるのは我々が見慣れた顔だが、無数のフラッシュを浴びるスターの面影は感じられない。華美な色彩が特徴的なカーウァイ監督の画面構成は決してリアリスティックではないのだが、それぞれの街と結びついた、市井の人々に見えてくるから不思議である。「俳優の生の姿を映し出す!」といったような意気込みをギラつかせるのではなく、個々の呼吸に合わせてカットを刻むような澱みのなさが、非常に有機的に機能しているといえよう。



『マイ・ブルーベリー・ナイツ』(C)Block 2 Pictures 2006


 不思議な生っぽさが生み出す、包容力と共感性。『マイ・ブルーベリー・ナイツ』が、カーウァイ監督の作品の文脈だけではなく、若い女性たちの心をとらえた「恋愛映画」の良作として親しまれているのも、これらのムードがなせるワザだ。映画界にいなくてはならない巨匠でありながらも、大仰な演出や威圧感は皆無で、現在進行形の女性の心の機微を、セリフではなく画面全体で映しとる。この「語りすぎない」空気感がかえって押しつけがましくなく、心地よい寄り添い加減を生み出しているのかもしれない。


「ザ・ストーリー」


 ちなみに、ジョーンズが書き下ろした本作の主題歌「ザ・ストーリー」は、撮影を終えて帰宅した早朝に書き上げられたとか。クオリティはもちろんだが、ハスキーな声で繰り返される「I guess it's just how it goes(きっとそういうものなんだと思う)」に象徴されるような「構えない」歌詞も、『マイ・ブルーベリー・ナイツ』の世界観と調和している。



PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. マイ・ブルーベリー・ナイツ
  4. 『マイ・ブルーベリー・ナイツ』色彩、詩情、空気……ウォン・カーウァイの美意識が「世界化」した瞬間