1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. イヤー・オブ・ザ・ドラゴン
  4. マイケル・チミノ監督『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』で結ばれた男たちの友情の数々
マイケル・チミノ監督『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』で結ばれた男たちの友情の数々

(c)Photofest / Getty Images

マイケル・チミノ監督『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』で結ばれた男たちの友情の数々

PAGES


男たちの闘いはスクリーンの向こう側でも



 実は、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』における男たちの“闘い”は、スクリーンの向こう側でも起こっていた。監督のマイケル・チミノは、前作『天国の門』(80)の大幅な予算超過によって配給のユナイテッド・アーティスツを倒産に追い込んで、監督として完全に干されていた時期。『フットルース』(84)の企画も断るなど、ハリウッド業界内での評判も落としていた(言うまでもなく、ケヴィン・ベーコン主演の『フットルース』はハーバート・ロスが監督し、大ヒットを記録した)。


 そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、フェデリコ・フェリーニ監督の『』(54)や『キングコング』(76)を製作してきたイタリア出身の大物プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスだった。


『天国の門』予告


 当時、ディノ・デ・ラウレンティスもまた、『デューン/砂の惑星』(84)という壊滅的な失敗作を製作していた(この映画の製作経緯が、どれほどドラマティックなものだったのかは、ドキュメンタリー映画『ホドロフスキーのDUNE』(13)に詳しい)。1919年にチャールズ・チャップリンやD・W・グリフィスたちによって創立された歴史ある映画会社を潰してしまった、マイケル・チミノの当時の心境を理解できる人間はそう多くない。『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』は興行的に失敗したと前述したが、チミノとラウレンティスはチミノが1990年に監督した『逃亡者』でも組んでいる。つまり、それほど意気投合したのだと解せる。


 ラウレンティスがチミノの才能を信じていたことは、映画撮影の裏話からも窺える。『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』で撮影されたチャイナタウンは、すべてノースカロライナ州ウィルミントンに建設された巨大セットで撮影されたもの。そもそも『天国の門』が予算超過に陥ったのは、1890年代のワイオミングを再現したオープンセットに対するこだわりによるものだった(当時の機関車を調達した上、走行できるようセット内にレールまで敷いた)。



『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(C)2007 LEGENDE - TF1 INTERNATIONAL - TF1 FILMS PRODUCTION OKKO PRODUCTION s.r.o. - SONGBIRD PICTURES LIMITED Visa d’exploitation N°111 803 Dépôt légal 2007


 当時のチミノに巨大セットを建設させるなど、狂気の沙汰と誰もが思っただろう。そんな経緯を知った上で、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』のエンドロールに流れる曲が、マーラーの交響曲第2番ハ短調「復活」であることは、とても意味深い。



PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. イヤー・オブ・ザ・ドラゴン
  4. マイケル・チミノ監督『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』で結ばれた男たちの友情の数々