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カルト映画の最高峰『ピンク・フラミンゴ』がフィルムに刻む、崇高なるお下劣さ

(c)Photofest / Getty Images

カルト映画の最高峰『ピンク・フラミンゴ』がフィルムに刻む、崇高なるお下劣さ

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伝説のカルト作の地位へ上り詰めるまで



 では、いわゆるアングラな映画だった本作は、いかにして伝説のカルト映画の地位にまで上り詰めたのか。当然ながら『ピンク・フラミンゴ』は正規の全国公開ルートなど通っていない。最初の上映場所は地元のボルティモア大学。好奇心旺盛な学生たちを中心に満員御礼の入りで、その反応も最高のものだったとか。しかしそれだけでは製作資金を回収することなど不可能で、ウォーターズはひとまずこの作品を、映画会社ニューラインに送って反応を見た。


 すると殊の外、好反応で「ぜひ我々の手で配給したい」という。そうやって契約を結んだものの、攻め方を欠いたニューラインは長らく手が打てないままで、挙げ句の果てにボストンのポルノ映画館などでこの映画を上映したようだ。


 事態がようやく動いたのはニューヨークにあるカルト映画の殿堂エルジン・シアターでかかった頃から。ホドロフスキーの『エル・トポ』(70)をカルトヒットさせたことでも知られる劇場だ。ここで『ピンク・フラミンゴ』は週一回の深夜上映から始まり、徐々に二日、三日と増やしながら、じっくりと評判を温めていった。


『ピンク・フラミンゴ』予告


 さらに映画の本編シーンを全く使わない予告編(主に観客のリアクションだけで構成)が作られ、そこからクチコミが徐々に浸透し、毎月のように違う街でドサ廻り的な上映が展開されていくようになったという。上映禁止を求める裁判を起こされることも多かったが、その一方で劇場によっては10年間近く上映し続けたケースもあるそう。深夜上映などが多かったことから、決して多くの興収をもたらしたわけではないが、息の長い興行がその伝説の価値を高めていったのは確かのようだ。


 よく物事の真の価値は歴史が決めると言われる。誕生から半世紀近く経った今なおカルト映画の最高峰として不動の地位を守り続ける本作は、もはや映画の枠組みをはるかに超えた精霊のごとき存在なのかもしれない。



文: 牛津厚信 USHIZU ATSUNOBU

1977年、長崎出身。3歳の頃、父親と『スーパーマンII』を観たのをきっかけに映画の魅力に取り憑かれる。明治大学を卒業後、映画放送専門チャンネル勤務を経て、映画ライターへ転身。現在、映画.com、EYESCREAM、リアルサウンド映画部などで執筆する他、マスコミ用プレスや劇場用プログラムへの寄稿も行っている。



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