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『ファースト・マン』リスクを負い挑戦する姿が宇宙飛行士と重なる、デイミアン・チャゼル監督

(c)Universal Pictures

『ファースト・マン』リスクを負い挑戦する姿が宇宙飛行士と重なる、デイミアン・チャゼル監督

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真のリアリティは“非・映画的”である



 私が最も印象深かったのは、ニールたちが打ち上げのためにコクピットへ向かう際、エレベーターに乗って上がっていくシーンだった。エレベーターはガラス張りで、これから搭乗するロケットを望む風景が映っている。だが、その画面で最も目立っているのは、ロケットでもなく、搭乗者の姿でもなく、エレベーター室内に下がっている照明の映り込みなのである。映画では、見せたいものを見せることができる。美術に手間暇をかけられる大作映画であれば、不要な情報を画面の中から排除することは容易なはずである。にも関わらず、無意味にも思える情報を、ここでは印象的にとらえようとしている。だが考えてみれば、人間の体験や記憶というのは、そういうものなのではないだろうか。


 ここで、少し別の話をしたい。サッカーの有名な指導者、ファビオ・カペッロ監督は、かつてイタリア・サッカー1部リーグのチーム「ASローマ」の指揮を執り、リーグ優勝を達成している。優勝を決めた試合で客席から祝福を受けている瞬間、彼はこう思っていたと、インタビューで述懐している。「観客席の色彩が、まるで抽象画家ピエト・モンドリアンの絵画のようだった」と……。この発言は、サッカーとも試合とも、これまでの練習や苦労とも全く関係がない内容で、かなり場違いな受け答えに思える。意図も不明瞭だと感じられ、「だから何なんだ」と言いたくなってしまう。だが、カペッロ監督がその場でそのようなことを感じたというのは、紛れもない事実なのだろう。



『ファースト・マン』(c)Universal Pictures


 実際の印象や記憶というものは、このようにしばしば意味がなく場違いなものである。そして、それこそ真の“リアル”なのではないのか。『ファースト・マン』の映像は、“意味”にこだわらない姿勢で、このようなある種の不可解さをも内包することで、きわめて主観的なムードを作り出しているのではないだろうか。だからこそ、本作で描かれる月に降り立つまでのイチかバチかの判断だったり、一瞬の判断の迷いによって死に至る演習が、真に脅威と感じられるのである。ドラマチックに演出されたものではない、“意味”から切り離された「死」そのものが、常にそばにあるという感覚が、本作のあらゆるシーンに流れ続けている。


 すでに述べたように、本作はチャゼル監督の脚本ではない。だからこそここでは、演出に注力することで、これまでのチャゼル監督にはない、特異な描き方を構想する余裕が生まれているように感じられる。つまり本作は、演出の面で前2作とは次元の異なる領域へと踏み込んでいるのだ。



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