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『リバー・ランズ・スルー・イット』ロバート・レッドフォードとブラッド・ピット、運命の出会いが生み落とした珠玉の傑作

(c)Photofest / Getty Images

『リバー・ランズ・スルー・イット』ロバート・レッドフォードとブラッド・ピット、運命の出会いが生み落とした珠玉の傑作

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映画化不可能と思えた小説に挑戦したレッドフォード



 その映画化への道のりはけっして平坦なものではなかった。レッドフォードが原作の映画化について考え始めたのは、80年代の初頭からだった。『 普通の人々』でアカデミー賞を手にし、さらにサンダンス・インスティチュートも動き始め、作り手としてさらなる飛躍をめざしていた時期である。


 そんな時、友人である作家のトーマス・マクゲイン(映画化もされた「ミズーリ・ブレイク」の作者)に進められて読んだのが、ノーマン・マクリーンの小説「リバー・ランズ・スルー・イット」(日本での翻訳タイトルは「マクリーンの川」)だった。マクゲインは、この作品を西部の魅力をとらえた最高の小説の一本と考えていた。


 「“これは本物だよ”と彼は言った。私は実はその言葉をすぐには信じなかった。しかし、最初の一行を読んだ時、これは特別の作品かもしれない、と予感した。そして、最後の一行までたどりついた時、それを確信した。小説を読み終えた時、私はぜひ映画化したいと思い始めたのだ」(ロバート・レッドフォード、2017年のアメリカ版原作に寄せられた序文より)


 マクリーンは英文学の教授としてシカゴ大学に在籍し、シェイクスピアやワーズワースなどの英文学を教えていた。そんな彼の授業には人気作家となるソール・ベローやフィリップ・ロスなども出席していたという。小説を書き始めたのは退職後で、『リバー・ランズ・スルー・イット』を書き上げたのは1976年、彼が74歳の時だった。


 多くの出版社に書籍化を断られたが、最終的には自身の所属していたシカゴ大学の出版局から出され、学生たちの静かな支持を得て、やがてはロングセラーとなった。映画版では、幼いマクリーン少年が、牧師の父親に文章を推敲される場面があるが、この小説もムダがない文章で、ヘミングウェイなどを思わせる文体と考えられた。その世界観は自然を描いたアメリカ文学の金字塔『 ウォールデン 森の生活』(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー作)などとも比較された。


『リバー・ランズ・スルー・イット』予告


 レッドフォードが映画化の話を打診した時、原作者のマクリーンは映画版を作ることに懐疑的で、他の映画化のオファーも断っていたようだ(男優のウィリアム・ハートもポール役に関心を持ち、原作者と接触を図ったが、断られたようだ)。レッドフォードは彼に会った時のことを前述の本で、こんな風に回想する。


 「私たちは80年代半ばにユタ州のサンダンスで会った。マクリーンはすごく礼儀正しく、丁寧だが、どこか不安げな顔を見せ、すごく純粋な人に思えた。私はお互いの社会的な評価とは関係なく、ひとりの人間として彼と信頼感をはぐくんでいくことが大切だと思った」


 その後もレッドフォードはこの作家と話し合いを続け、脚本の第一稿を読んでもらって、気にいらなければ、映画化を考え直すという提案も出したようだ。そして、3年以上をかけて、シナリオを練り直し、いよいよ、モンタナでの撮影が始まろうとした時、87歳のマクリーンは他界した。90年の出来事だった。


 彼は死の直前に40年代の大規模な森林火災をテーマにした『 マクリーンの渓谷――若きスモークジャンパー(森林降下消防士)たちの悲劇』というノンフィクションも書き上げ、死後(92年)発表され、全米批評家協会賞も受賞した。こちらはクリント・イーストウッド主演で映画化の話もあったようだが、結局は実現していない。


 『リバー・ランズ・スルー・イット』に関しては、レッドフォードほどの情熱と真摯な姿勢があってこそ、映画化が実現したのだろう。生前のマクリーンを知る人のブログを読むと、彼はポール・ニューマンに佇まいが似ていたそうだ。レッドフォードはニューマンとの名コンビで知られる俳優でもあるので、そんなところにも奇妙な因縁を感じる。



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