1. CINEMORE(シネモア)
  2. NEWS/特集
  3. 黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 中編
黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 中編

(c)Photofest / Getty Images

黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 中編

PAGES


悪い奴ほどよく眠る



 押し寄せる現実的な問題を前に、流石の黒澤も軌道修正を余儀なくされた。1962年7月25日、記録映画製作委員会第1回会合の席で、改めて記録映画の企画・製作を黒澤に依頼することが確認され、それを受けて黒澤も「テレビの普及と速報性のため基本構想を変更せざるを得なくなった。製作費は当初にくらべると相当安くなる」(『朝日新聞』62年7月26日)と明言した。


 ここで注目すべきは、予算を削られたから基本構想を変更したとは公言出来ないために、テレビの影響を持ち出した点である。製作委員会でも意思統一があったようで、東宝の森副社長も後に「黒沢君自身の考え方がローマから帰ってから変わってきた。通信衛星が打ち上げられた今日、東京大会でもテレビによる報道を優先的に考えるべきで、自分が巨額の金を使って記録映画を作るというのは、再考すべきではないか、というのだ」(『讀賣新聞』63年2月6日)と、同様の見解を示している。そして、再考された製作費は田畑によると、「三億七千万円より少なくなる見込み」(『讀賣新聞』62年7月26日)だった。


 こうして仕切り直しが始まろうとしたタイミングで事件が起きる。1962年9月25日、日本オリンピック委員会(JOC)総会で津島寿一委員長と田畑政治総務主事が辞任したのだ。これは、同年8月に第4回アジア競技大会で、開催地のインドネシアがイスラエルと中華民国の選手に対してビザ発行を拒否したことから、国際オリンピック委員会は参加権利のある国が参加できない大会は正式な大会ではないと通告。この問題に同大会へ出場していた日本も巻き込まれ、インドネシアと日本の関係もあって競技には参加したものの禍根を残し、責任を取る形で津島と田畑はJOCの役職を辞任した。当初は別組織であるオリンピック大会組織委員会の事務総長には留まると見られていたが、政治絡みの主導権争いの波に巻き込まれ、事務総長も辞任することになった。こうした内部の人事問題は、記録映画製作にも翳を落とすことになった。


 一方の黒澤は、『椿三十郎』が完成すると直ちに次回作の製作に入っていた。1962年1月に下調べ、2、3月で脚本を書き上げた子どもの誘拐をテーマにした『天国と地獄』(63)である。予定通りなら4月には撮影に入ることになっていたが、黒澤が警部役に仲代達矢を熱望したことからスケジュールが空くのを待って7月末まで延期となり、さらにそこからクランクインは伸び、ようやく撮影に入ったのは9月2日、撮影終了は翌1963年の1月31日となった。つまり田畑の辞任騒動の最中、黒澤は『天国と地獄』の撮影に打ち込んでいたことになる。


 黒澤が撮影を終えた頃には、田畑の後任として就任した与謝野秀事務総長を中心に、一委員としてJOCに残った田畑、森岩雄東宝副社長、川喜多長政東和社長、黒澤をメンバーとする東京オリンピック記録映画委員会が組織委員会の中に置かれていた。委員会の開催を前に東京五輪記録映画予算案が黒澤に提示された。総額2億3428万7200円というもので、35mmフィルム、カラー、シネスコ、上映時間は2時間30分〜3時間を想定して製作費が割り出されたものだが、3月22日の委員会で黒澤は「2億5千万円では理想的な作品は無理だ」と宣告し、監督を辞退する旨を伝えた。


 これで黒澤とオリンピックの関係は消滅したように思えるが、実際には与謝野の強い慰留もあり、助言は惜しまないと黒澤は述べ、監修として名前を出すことは辞退したものの記録映画委員会の委員として残留することになった。



PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. NEWS/特集
  3. 黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 中編