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黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 後編

(c)Photofest / Getty Images

黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 後編

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撮影開始とともに『歓喜の歌』が流れた



 黒澤は実現しなかった幻の『東京オリンピック』について証言を残していない。イメージボードや脚本の有無も公表されておらず、助手の松江陽一によれば「(脚本を)書く直前ぐらいだったんじゃないかな」(『異説・黒澤明』文春文庫ビジュアル版)ということなので、おそらく残っていたとしてもメモ書き程度のものだろう。その代わり、残された黒澤映画に『東京オリンピック』の痕跡を見つけることが出来る。例えば、後年の『八月の狂詩曲』(91)のラストでは豪風雨の中を老婆が傘を差して歩いていく後を孫たちが走って追いかける。無我夢中で走る姿を望遠レンズで捉えたダイナミズムは、虚構を超えた生身の肉体が見せる躍動を見事に映し出しており、黒澤がオリンピックを撮っていれば、こんな蠱惑的な映像が幾つも観られたのではないかと思わせる。


 映画評論家の白井佳夫は『天国と地獄』の列車の中での現金受け渡し場面にも、その原型があると指摘する。このシーンは実際に特急こだまの車内で撮影されたが、臨時ダイヤを組んで極めて厳しい条件下で行われた。実際、鉄橋を通過する前後で行われる現金受け渡しシーンは実時間である14秒で撮りきるしかなく、8台のキャメラを周到に準備して一発勝負で行われた。白井は「スタッフ、キャストを二度と走らせられない列車の中っていう限界状況に追い込んで、オリンピックを撮ることが出来なかったから、疑似スポーツ状況みたいなものを列車の中につくり出して、(略)オリンピック競技の偶発的事態に対処するように、全スタッフを燃え立たせようとした」(『異説・黒澤明』)という説を唱えているが、話としては面白いものの、これまで見てきたとおり『天国と地獄』の撮影段階では、まだ黒澤はオリンピック映画からの降板を決断していない。むしろ、オリンピックへのリハーサル的意味合いがこの撮影にはあったのではないか。


 また、辞退を決めた後の『赤ひげ』では、黒澤は撮影当初からセットでベートーヴェンの『歓喜の歌』を流し、「あれを聞かせて〈最後にこの音色が出なかったら、この作品はだめなんだぞ、このメロディーが出なかったら〉と繰返し言った」(『世界の映画作家3 黒沢明』(キネマ旬報社)という。黒澤はオリンピックの開会式で、国立競技場の上空に飛ばした幾つもの気球に立体音響の装置を施し、そのスピーカーから一斉に『歓喜の歌』を流すという構想を持っていたが、その試みが不首尾に終わったために『赤ひげ』へ引き継がれたと思えなくもない。実際、この作品は『東京オリンピック』を忘れるための役割を果たした可能性もある。というのは、1963年12月21日にクランクインした本作は、翌年6月に完成予定だったが、加山雄三の度重なる病気療養、黒澤自身の肺炎など諸々の撮影中断があり、クランクアップは1964年12月19日まで伸びた。気づいてみれば、東京オリンピックは2か月前に終わっていた。


 黒澤にとってはそれまでの撮影最長記録だった『七人の侍』を更新することになった。そして1965年4月3日、『赤ひげ』は公開された。その2週間前には市川崑の『東京オリンピック』も封切られ、共にその年の興行記録の上位2本を独占する大ヒットとなった。結果として黒澤はオリンピックの開催前から記録映画公開までのすべての期間を『赤ひげ』に没入することで、やり過ごしたことになる。この符合はただの偶然だろうか。



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