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【ミニシアター再訪】第8回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その3 渋谷の夜を変えた音楽映画 後編

【ミニシアター再訪】第8回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その3 渋谷の夜を変えた音楽映画 後編

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渋谷・公園通りの長い行列



 宣伝に関しては日本のファッション・ブランドも巻き込んだ。今ではブランドとのタイアップは他の映画会社でもとられているが、当時としては珍しかった。


 映画の中ではボーカルのデイヴィッド・バーンがだぶだぶのビッグ・スーツを着て「ガールフレンド・イズ・ベター」を歌いながら踊るシーンがあり、映画のハイライトとなっている(「ストップ・メイキング・センス」という歌詞が出てくる)。


 ポスターにはスーツだけを撮影した印象的な写真が使われているので、ファッション・メーカーのメンズ・ビギと手を組んだキャンペーンを考えた。Tシャツを作り、2~3分の映画館用のオリジナルのコマーシャル・フィルムも製作した。


 メーカー側は海外での作品の評判をすでに知っていたので、自社のイメージアップを図れると考えたせいか、快くタイアップを受け入れてくれたという。こうしたファッション・ブランドを巻き込んだ宣伝は当時としては珍しかった。


 また、求人雑誌「アルバイト・ニュース」(現在の「an」)に「映画スタッフ、募集」という広告も打った。スタッフといっても、実際は渋谷や新宿などでの映画のビラまきの仕事だったが、この告知が予想以上の反響を呼び、アルバイトの面接が予定されていたビルの前に列ができて、宣伝部としては成功への手ごたえを感じ始めたという。


 「公開前に問い合わせが多かったので、ヒットすると思い始めました。とにかく、変にスノッブな映画ではなかったところが良かったですね」と遠藤さん。


 いざ公開してみると、興行は大成功に終わり、特に渋谷では約3カ月のロングランとなった。レイトショーだけの公開であるにもかかわらず、1億円近い興行収入を上げることができたのだ。


 「上映中はまるで寅さんの映画を見るように拍手している人や映画館の後ろで踊っている人もいたようです」と遠藤さん。


 宣伝部で遠藤さんの同僚だった伊地知徹生さんは「ライブ感を会場に持ち込め、音楽ファンなどとクロスオーバーできたことがうれしかった」と語る。


 当時、この映画に惚れこんでいた私は何度か劇場に行ったが、公園通りにある渋谷ジョイシネマの前には長蛇の列ができていて、それだけで映画への興奮が高まった覚えがある。私の見た回に踊っている観客はいなかったが、曲の切れ目には拍手が出て、実際にコンサート会場にいるような気分になったものだ。


 映画の中では客席が最後の曲以外では写らず、こちらもコンサート会場の観客の目線でステージ上の演奏を堪能できる。ただの甘いラブソングが歌われることはなく、ナンセンスな言葉を重ねることで都市生活者の孤独や狂気が浮かび上がる。メンバーたちはアートスクール出身なので、視覚的な見せ方もうまく、ランプやスライドなど最小限の小道具を使って曲ごとに異なる表情を見せていく。


 撮影されたのはハリウッドにあるパンテージ・シアター。モノトーンのスーツ姿で歌い、踊るデイヴィッド・バーンの不思議な存在感は、ミニマリズムのスタイルが流行した80年代のパフォーマンスの洗練されたパワーを伝える(頭の切れる殺人鬼の心情を歌った「サイコ・キラーを今見ると、ジョナサン・デミ監督の後年の代表作『羊たちの沈黙』(90)の知的な殺人鬼、レクター博士を思い出す)。


 映画のポスター裏には生前バーンと交流もあった映画&音楽評論家の故・今野雄二さんのコメントも印刷されている。


 「デイヴィッド・バーンの白いスニーカーから始まって、黒いユニフォームのスタッフ達までが全員ステージ上に勢ぞろいするエンディング──そこで初めてキャメラがステージを降りて客席の中へ入っていく。どの顔も幸せいっぱいに輝いている。何て素敵な眺めなんだろう。トーキング・ヘッズの音楽は演奏する者にも聴く者にも、幸せそのものの響きなのだ」


 遠藤さんの話によれば、このライブ映画は音楽、アート、ファッションなどに興味がある若い観客を集めた興行だったという。映画ファンをターゲットにしていた従来の映画興行の壁を打ち破り、まさに“ストップ・メイキング・センス”の精神が生きた作品となった(だからこそ、パルコなどの上映にも影響を与えたのだろう)。 


 一方、伊地知さんはこんな話もしてくれた。


 「あの頃の日本の観客には新しいものに食いつくエネルギーがあったと思います。クズイ・エンタープライズはイベントなどとからめて映画をセールスしていました。映画だけではなく、プラスのおもしろさを加えていたわけです。日本はミニシアターの創生期で、自主映画の運動が盛り上がったり、インディーズ音楽が生まれていました。その結果、こうしたニューヨークのインディペンデント映画を受け入れる場所があったのですね。また、小さな配給会社が出てきて、自社のカラーを作り、ビデオ会社もオルタナティヴなものを商売にしていたおもしろい時代だったと思います」



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