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【ミニシアター再訪】第14回 映画の街・銀座からの巻き返し・・・その3 銀座・ミニシアター元年 1987

【ミニシアター再訪】第14回 映画の街・銀座からの巻き返し・・・その3 銀座・ミニシアター元年 1987

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 商業的なミニシアターが銀座にオープンしたのは1987年。この年、3つのミニシアターが同時にスタートした。


 新宿、六本木、渋谷あたりに比べると後発だった。しかし、いざオープンすると『ベルリン・天使の詩』(88)や『ニュー・シネマ・パラダイス』(89)など数多くのミニシアターのヒット作が銀座・日比谷地区からも生まれていく。


 銀座は映画ファンにとって、どんな意味を持つ街なのか? 街のイメージの変遷もたどりながら、東宝初の本格的なミニシアター、シャンテ・シネ(現TOHOシネマズ、シャンテ)への道のりをたどり直そう。


 今回、シャンテの歴代ヒット作も紹介している(2014年のもの)。次回からはこのリストに登場した人気作品の公開秘話も届けたい。


※以下記事は、2013年~2014年の間、芸術新聞社運営のWEBサイトにて連載されていた記事です。今回、大森さわこ様と株式会社芸術新聞社様の許可をいただき転載させていただいております。


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銀座はハイカラの中心



 ミニシアターの歴史を振り返ると、2つの特筆すべき年がある。ひとつは1981年。この年、六本木の俳優座シネマテン、パルコスペースパート3、シネマスクエアとうきゅうの3つの劇場がオープンし、ミニシアターの創生期となった。


 もうひとつの記念すべき年は1987年。この年、銀座・日比谷地区に3つのミニシアターがオープンした。銀座一丁目にある銀座テアトル西友(後の銀座テアトルシネマ)、日比谷のシャンテシネ(現TOHOシネマズシャンテ)、銀座の四丁目交差点の近くにあるシネスイッチ銀座だ。 


 ミニシアターのスタートに関しては新宿や六本木にやや遅れをとっていたものの、洋画の封切りについては銀座・日比谷地区は東京の先進地域だった。


 今では新宿や渋谷などでも銀座・日比谷地区と同時に封切られるが、かつては銀座周辺の映画館だけが、特権的な力を持っていて、他の地域に先駆けて洋画を公開していた。ロードショーという言葉が初めて使われたのも東宝の日比谷映画街だ。


 昭和の人気歌手、フランク永井の57年の大ヒット曲として知られる「有楽町で逢いましょう」は日比谷の近くにあった有楽町のデパート、そごうのキャンペーンソングだった。その中には「きょうのシネマはロードショー かわすささやき」という歌詞も出てくる。かつて銀座・日比谷地区の映画館にはワンランク上の感触があった。これについては作家の山口瞳がこんなエッセイを残している。 


 「それはすべて戦後のことだった。僕が家の近くの小便臭い映画館ではなく、映画館らしい映画館で初めてアメリカ映画を見たのは日比谷映画劇場だった。十歳であったと思う。叔父が東宝に勤めていたので無料で見た。(中略)東宝というのはモダンで明るい感じがした。色調で言えば白である。日比谷映画は白っぽかった。館内に一歩足を踏み入れただけで胸が躍った」(『新東京百景』、88年、新潮社刊) 


 日比谷映画街の周辺には映画館だけではなく、帝国劇場、宝塚劇場のように華やかな劇場や高級感漂う帝国ホテルもあった。 


 「日比谷映画劇場、有楽座、東京宝塚劇場、帝国ホテル、日比谷公園、帝劇、東京会館、丸ビル、日劇といったあたりは日本の文化の中心であるような気がしていた。文化の中心というよりは、ハイカラの中心と言ったほうがいいかもしれない」(前掲書) 


 山口は当時の映画街についてそう回想する。 



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