スパイク・リー監督が扱う人種問題
ソダーバーグ作品同様、89年のカンヌ映画祭で大きな話題を呼んだアメリカのインディーズ系監督がスパイク・リーだった。人種差別をテーマにした『ドゥ・ザ・ライト・シング』(89)はこの映画祭で賛否両論を巻き起こし、その後、アメリカ本国でも大変な議論を呼んだ。高橋専務は振り返る。
「日本のメジャーな配給会社もいろいろな写真〔映画〕をかかえていまして、シャンテにそれなりのものをもってきてくれました。スパイク・リー監督の『ドゥ・ザ・ライト・シング』の場合は、ぜひうちにかけたいという話がUIPからありました」
当時のUIPはスティーヴン・スピルバーグ監督の『インディ・ジョーンズ』シリーズや『E.T.』(82)『フラッシュダンス』(83)『ビバリーヒルズ・コップ』(84)など超メガヒット作を連発して、最強の洋画会社のひとつと考えられていた。 そんな会社にとってスパイク・リーの問題作『ドゥ・ザ・ライト・シング』は王道のエンタテインメントの枠からはずれた作品だった。
舞台は真夏のニューヨーク(ブルックリン)で、そこに住む人々の人種問題が過熱していく様子が強烈なユーモアをまじえながら群像劇として語られる。監督自身がピザ屋の店員役を演じていて、後半では彼が勤めるイタリア系オーナーの店で激しい暴動が起きる。
「当時、この写真〔映画〕を見て、すごいパワーだな、と圧倒されました。冒頭がボクシングシーンで始まり、ガーンとくる感じがありました。ただ、お客様が入るかな……とも思ったんですが、結果的にはいい数字が出ました」
この作品は『セックスと嘘とビデオテープ』の上映が終わった翌日の90年4月6日に封切られ、6月14日まで10週間の興行。シャンテの歴代20位(興行成績7400万円)となっている。
マスコミ用に作られたプレスが手もとにあるが、その中にピーター・バラカン(ブロードキャスター)が寄稿していて、「ますます巨大な多国籍企業中心となって行くアメリカの娯楽産業の中で、独自のヴィジョンを持った個人がコマーシャリズムと妥協せずに一般大衆に受け入れられることはかなりむずかしくなってきた。だからこそ、スパイク・リーの成功を心から喜びたい」と書いている。
思えば“黒人”という表現に変わって“アフリカ系アメリカ人(アフリカン・アメリカン)”という表現が日本の新聞や雑誌で使われるようになったのもこの映画からで、従来の黒人と白人の価値観を根底から覆すようなパブリック・エネミーのテーマ曲「ファイト・ザ・パワー」にも大きなインパクトがあった。
カラフルな色彩によるグラフィックな映像とリズム感あふれる選曲にも監督のセンスが出ていて、ニューヨークの80年代のストリート感覚が詰まった作品でもある。
スパイク・リーの成功によって、アフリカ系アメリカ人の監督や俳優たちが大きな躍進を遂げる(21世紀にはアフリカ系アメリカ人の大統領も登場した)。 そして、その後もデンゼル・ワシントン主演の音楽映画『モ'・ベター・ブルース』(90)、恋愛映画『ジャングル・フィーバー』(91)から近年の戦争映画『セントアンナの奇跡』(08)まで数多くのスパイク・リー作品がシャンテでは上映されてきた。
スパイク・リーはジム・ジャームッシュ同様、シャンテに縁の深いインディペンデント系監督のひとりとなった(劇場でヒット作が出ると、その監督の作品をかけ続けるのが、ミニシアターのよき伝統でもある)。
◉『ドゥ・ザ・ライト・シング』(左)に続き、スパイク・リー監督の異人種間のラブストーリー『ジャングル・フィーバー』(右)もシャンテで上映された