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【ミニシアター再訪】第28回渋谷系の流行、ミニシアターの熱い夏・・・その5 Bunkamuraの映画館、ル・シネマ

【ミニシアター再訪】第28回渋谷系の流行、ミニシアターの熱い夏・・・その5 Bunkamuraの映画館、ル・シネマ

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 ミニシアターの功績のひとつは女性の映画ファンを増やしたことだろう。渋谷で最も女性層を意識して作られた劇場といえば、ル・シネマ。Bunkamuraという文化複合施設の中にあり、コンサートや美術館などと連動して文化的に広がりのあるプログラムが組まれた。


 スタート時はフランス映画のイメージが強く、イザベル・アジャー二やカトリーヌ・ドヌーヴなどの主演作が大ヒット。修正問題をゆるがしたエマニュエル・ベアール主演の『美しき諍い女(いさかいめ)』(91)も話題を呼んだ。


 また、フランスのパトリス・ルコント、ポーランド出身のクシシュトフ・キェシロフスキもこの劇場が生んだ人気監督である。アジア映画の話題作も数多く上映され、『さらば、わが愛/覇王別姫』(93)、『初恋のきた道』(99)、『花様年華』(00)等のヒット作も出している。


 オープンから30年以上が経過したが、近年は国籍をさらに広げて、世界中から質の高い作品を集める劇場として人気を得ている。今年、この劇場が生んだフランス映画の大ヒット作『ポネット』(96)が別の劇場(ユーロスペース)でリバイバル公開される。


※以下記事は、2013年~2014年の間、芸術新聞社運営のWEBサイトにて連載されていた記事です。今回、大森さわこ様と株式会社芸術新聞社様の許可をいただき転載させていただいております。


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複合文化施設がオープン



 80年代、渋谷の宇田川町の周辺には複数のミニシアターがあった。公園通りの近くのパルコ・パート3の中にはミニシアター的な役割も果たしていた多目的ホール、スペース・パート3(1981年オープン、後のシネクイントとなる)、その目の前にシネマライズ(86年オープン)、駅に近いビル、ザ・プライムの中にはシネセゾン渋谷(85年オープン)。


 宇田川町周辺にはレコードショップやライブハウスが集まっているせいもあり、こうした劇場では若い層を狙った都会的な作風の映画が上映されていた。


 また、駅の反対側の桜丘町にあったユーロスペース(82年オープン)は独自のインディペンデント路線を歩み、よりマイナーで実験的な作風のものを上映していた。


 当時のこうした渋谷のミニシアターとは異なる路線を打ち出し、東急沿線に住む大人の女性層をターゲットにした映画館が80年代最後の年にオープンすることになった。東急本店に隣接した2つのミニシアター、ル・シネマの1と2である。他のミニシアターとの大きな違いは、この劇場がBunkamuraという複合文化施設の中にある点だ。


 Bunkamuraにはオペラ、バレエ、クラシックコンサートや演劇が上演できる2つのホール(オーチャードホール、シアターコクーン)と美術館(ザ・ミュージアム)もあり、さらにパリの有名なカフェの初の海外業務提携店であるドゥマゴパリも入っていた。


 「最初にBunkamuraのコンセプトを聞いた時、とても便利で、都合がいい場所ができるな、と思いました。ビルの中にいろいろな施設が入っているので、カルチャー好きはそこでいろいろな体験ができるからです」


 オープン当初の印象をそう振り返るのは、ル・シネマの番組編成をオープン以来担当してきた中村由紀子プログラミング・プロデューサーである。


 Bunkamuraがオープンした89年はひとつの歴史の転換点となった年だ。海外では11月にベルリンの壁が崩れて、東西の冷戦が終った。日本では1月に元号が昭和から平成になった。当時の日本にはバブル経済の最後の勢いが残っていた。だからこそ、Bunkamuraのようにゴージャスな文化施設の誕生も可能だったのだろう。


 ミニシアターも併設されたカルチャービルといえば、セゾングループが作った六本木のWAVE(83年オープン)もすでにあったが、こちらは文化全体というより、映像とサウンドにこだわったカルチャービルだった。


 しかし、東急本店の駐車場跡地に建てられたBunkamuraはもっと敷地が広くて大がかりだったし、デパートに隣接して作られることで、そこに来る大人の女性層を意識した文化施設がめざされた。


 発案者は生前、東急電鉄の社長と会長をつとめた五島昇氏。プレ文化村計画が動き始めたのは82年で、具体的な建設計画は84年に発表され、その5年後、遂にオープンにこぎつける。


 「五島会長は残念ながらBunkamuraがオープンの時は亡くなられていたんですが、あの頃、企業は文化に注力しなくてはいけない、という考え方があったと思います」中村プロデューサーは当時をそう振り返る。


 この渋谷の新しい施設には関係者以外からも大きな期待が寄せられていた。パルコの責任者として渋谷の街作りに貢献してきた増田通二社長が86年にこんな記事を新聞に発表している。


 「東急さんは、東急百貨店の屋上にある『東横劇場』を廃止し、本店裏に『東急文化村』と呼ばれる施設の建設を進めている。(完成後は)渋谷は他の盛り場に水をあけることができるでしょう」(『朝日新聞』86年10月10日朝刊)


 このコラムのタイトルは「街は劇場だ」。演劇やイベントのためのスペースも併設した3つのパルコの渋谷進出によって、特に宇田川町の周辺は活気のあるエリアとなったが、増田社長は「劇場があることで街も栄える」というのが持論だった。だからこそ、自社とは関係のない東急の新プロジェクトにもエールを送ったのだろう。


 もっとも、そんなパルコを東急側は別の視線でとらえていた。


 「パルコなどの作り出した文化はあくまでもCMなどのイメージ中心のものだというのが我々の考え方だった。そうではなく、もっと本格的な文化を作り出したい。東横店西館にあった東横劇場は下に地下鉄銀座線が通るので、その騒音が聞こえてくるようなホールだった。本格的な文化を提供するにはちゃんとした劇場やホールがどうしても必要だった」と(当時の)東急百貨店の三浦守社長は語っている(Bunkamura編『喝采SHIBUYAから』〈文化出版局刊〉より)。


 パルコは確かにCMの印象が強く、そのターゲットはサブカルチャー的なものを好む若者たちだ。


 しかし、東急が作ったBunkamuraは前述のように大人の女性層を意識した方向がめざされた。ひとつには高級住宅街として知られる松濤地区に隣接して立っているという立地条件もあったのだろう。


 「渋谷は公園通りの近くにかつては危ない雰囲気も漂っていたセンター街があり、原宿に続くポップな路線があったり、神泉のあたりはかつて花街だったり、いろいろなものが混在した街です。そんな中で大人もくつろげるスペースをめざしたのがBunkamuraではなかったかと思います」中村プロデューサーはこの施設の方向性についてそう語る。


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