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【ミニシアター再訪】第29回 神保町で立ちあがった「ミニシアター」の源流 岩波ホール

【ミニシアター再訪】第29回 神保町で立ちあがった「ミニシアター」の源流 岩波ホール

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運命を変えたヨーロッパ映画



 さらに、この年から翌年79年にかけて、岩波ホールの運命を大きく左右する作品群が登場する。


 「まず、ルキーノ・ヴィスコンティ監督の『家族の肖像』(74)を上映しましたら、大変なヒットとなり、他のヴィスコンティ作品も何本かうちで上映しました。この成功の後、別の映画館も彼の作品を積極的に上映していました」


 『家族の肖像』はこの劇場では10週間のロングランとなり、当時、スタッフたちはトイレに行くこともできないほど、毎日、問い合わせの電話が鳴り続けていたという。その後は東宝の拡大系映画館にもムーブオーバーとなり、さらに大きな人気を得た(当時、劇場プログラムは岩波ホール版、東宝版の2種類が作られたという)。


 また、79年にはイタリアのエルマンノ・オルミ監督がイタリアの農民たちの生活を描く3時間の長編『木靴の樹』(78)やテオ・アンゲロプロス監督が旅芸人の視点でギリシャ史を綴った4時間の長編『旅芸人の記録』(75)も上映され、大きな反響を呼んだ。


 「このあたりの作品からフランス映画社の作品もかけるようになり、この会社の柴田駿社長や川喜多和子副社長(かしこの長女)とのおつきあいも生まれました。ベルイマンやフェリーニといった世界の巨匠とは別に、これからの映画界を背負う新しい監督たちをいち早く見つけようとしていましたね。フランス映画社のおかげで、巨匠の幅が広がっていったと思います」


 80年には数年間オクラだったヴィスコンティ監督の大作『ルードウィヒ』(72)の公開も実現し、こちらも大きな反響を呼んだ(この作品も岩波ホールでの上映以外に、東宝系の映画館でも公開され、『家族の肖像』同様、2種類のプログラムが作られた)。


 こうしたヨーロッパの作品群がかけられることで、岩波ホールは劇場として幅広い認知を得る。その成功に他の映画人も刺激を受け、80年代以降の多くのミニシアター誕生の大きな発火点となる。


 81年に新宿のシネマスクエアとうきゅうを作る時、その中心人物のひとりだったヘラルド・エースの原正人社長(当時)も「岩波ホールをもっと商業的にしたミニシアターをめざした」と語っていた。83年には六本木の文化ビル、WAVEの中にシネ・ヴィヴァン・六本木が作られ、今度はこちらでフランス映画社の作品群が上映されることになる。どちらも大手企業が作ったミニシアターで、シネクラブ的な運動体の意味合いが強い岩波ホールより、もっと商業的な劇場だった。


 このミニシアター・ブームの始まりについて、高野悦子総支配人は2013年に刊行された遺作『岩波ホールと〈映画の仲間〉』(岩波書店刊)の中で、こんな風に回想している。


 「『家族の肖像』が成功し、ヴィスコンティ・ブームが巻きおこった頃から、エキプを取りまく興行界の動きの変化が感じられはじめた。特にアメリカの娯楽映画一辺倒だった大会社が、岩波ホールの興行形態に興味を持つようになったらしく、何人もの映画関係者がエキプの研究のためにとホールを訪ねてきた。〔中略〕私はいつの間にか、ミニシアターの元祖とか、生みの母と呼ばれるようになっていた」


 「ところがである。岩波ホールがつぶれるという噂がまた耳に入ってきた。岩波ホール創立当時、すでによく耳にしたし、エキプスタート時には、上映作品が終わるたびに言われてきた。〔今回は〕ミニシアターが増えるにつれ、作品の取りあいになり、岩波ホールで上映する映画がなくなるため、ということなのである。確かに初期のエキプを支えてくれた名匠監督たちは、たちまち日本で甦り、他の劇場でどんどん上映されることになった。テオ・アンゲロプロス、アンドレイ・タルコフスキー、アラン・レネ監督たちの作品も、その難解さゆえに流行になった感もあった」


 「しかし、私はこの現象をかえって喜んだ。私たちには、上映したい作品がたくさんある。私たちの力は微々たるものだから、お仲間が増えるのは嬉しいことだ。私たちの好きな映画を上映する映画館が増えれば、良質の観客も増える、つまり、私たちの映画の仲間が結果的には増えるのだ。名匠巨匠の再発見を他の人がやってくれるなら、私たちはもっと地味な作品を上映することができる」


 他のミニシアターの出現を"映画の仲間"の増加につながる、と好意的にとらえ、前向きな考え方を示した高野総支配人であるが、これについて原田さんからはこんな答えが返ってきた。


 「シネマスクエアやシネ・ヴィヴァンが出てきて、それぞれが自分たちのカラーを求めた時代だったと思います。たとえば、シネスクと岩波の関係は、今のBunkamuraのル・シネマとうちに関係に似ているところがあり、シネスクやル・シネマの方がうちより華やかなイメージでした。映画ファンとして、ミニシアターが増えたことは歓迎すべきことだったと思いますが、ホールの支配人としては厳しい時代になったな、という気持ちもあったはずです」


 「カンヌ映画祭では各社で作品の争奪戦が起きていましたから。僕は自分の好きな作品を上映したいという思いが強かったのですが、高野はどこかおっとりしていましたね。とにかく、一本の映画をみんなで取り合っても仕方ないので、ホールの今後の個性についていろいろ考えていきました」



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