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深田晃司監督による特別寄稿「宮崎駿とわたし」

© 1986 Studio Ghibli

深田晃司監督による特別寄稿「宮崎駿とわたし」

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悪人の出ない冒険活劇とは



 『天空の城ラピュタ』以降、宮崎駿は得意としていたはずの冒険活劇から遠ざかっていく。なぜだろうか。恐らく、ヴェトナム戦争や天安門事件、世界中で収まることのない紛争の時代を経て、ひとりの悪人をやっつけて世界が救われるなんていう物語は嘘だ、と宮崎駿自身が気づいてしまったからではないだろうか。1989年に行われた作家村上龍との対談で宮崎駿はこう語っている。「本当の意味でのハッピーエンドを作ることは、とっくのむかしに断念したんですよ。(中略)映画を作る側からいいますと、あの悪人を倒したおかげでみんな幸せになったという映画が作れたら、楽でいいなと思うんですよ。」(*4)


 多くの映画は、そうは言ってもそれをしないと娯楽にならないから、悪人を作り主人公にそれをやっつけさせる。現在のハリウッド映画を見ても、いつまでも反復し作られ人気を集めるのはそのパターンである。


 しかし、ストーリーテリングとして割り切ることをよしとしない愚直な宮崎駿は、ムスカをやっつければハッピーエンドに至るような物語を作ることを止めてしまった。その後、『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、『紅の豚』を経て、ようやく久しぶりに活劇に戻ってきたかのように見えた『もののけ姫』は、善と悪の二項対立を乗り越えるために、まずはその二項対立を2時間かけて絵解きする、監督自身の葛藤がそのまま反映されてしまったかのような内容で、ラスト10分の混沌には何度でも興奮させられるものの、それ以外はどうにも退屈に感じてしまったことを白状する。公開当時、私はこの作品を映画館で13回は見たのだけど(最後にはアメリカから逆輸入版の英語吹替え版まで劇場で見た)、結論としては宮崎駿が次に進むための「壮大なる愛すべき失敗作」という印象だった。


 だからこそ、『千と千尋の神隠し』を見て、「ああ、とうとう宮崎駿は悪人の出ない冒険活劇に辿り着いたのだ」と感動したのだ。誰もが自分勝手で利害は対立し主人公も実は成長するわけでもないのに、物語は快調に弾み、スクリーンに溢れるアニメーションは活劇の喜びに満ちていた。主人公が課せられた問題を解決する方法も、物語の定石を鼻で笑うかのような、しかし宮崎駿の倫理と世界観に誠実に則った大胆さで喝采をあげたくなった。


 その後の、自由を手にした天才監督の奔放な作品は、どれも忘れ難く好きである。何度目かの引退宣言を期待通りに撤回してくれた宮崎駿の新作が今は楽しみでならない。


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