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【ミニシアター再訪】第2回 1981・・・その2

【ミニシアター再訪】第2回 1981・・・その2

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個性的な映画には行き場がない



 70年代後半の洋画界は莫大な宣伝費を投じることで『スター・ウォーズ』(77)や『未知との遭遇』(77)のような大作をヒットさせていて、大衆にアピールしにくい地味な作品は冷遇されていた。


 「あの頃、藤沢や大宮などの2番館でいきなりスプラッシュ公開される洋画もけっこうありましたよね」と寺尾さんは当時の洋画状況を振り返る。


 通常の洋画は東京のロードショー館でまずは1本立てで封切られ、その後、2本立てとなって地方で興業されていた。しかし、興行的に厳しいと判断された作品は、最初から2本立てにまわされた。ちなみに今では巨匠となったマーティン・スコセッシ監督の初期作品『明日に処刑を…』(72)も、通常のロードショー公開はなく、いきなり2本立ての映画館で投げ売りされた。


 ヨーロッパ映画にとっても状況は厳しく、海外でヒットしても、日本で売りにくそうな作品は輸入されなかった。『ジェラシー』を撮った英国のニコラス・ローグの場合、前作『地球に落ちて来た男』(76)は銀座の東劇などでロードショー公開されたが、興行的が不振のまま、3週間で打ち切られた(私もガラガラの映画館で見た覚えがある)。


 『ジェラシー』も一歩間違えれば、同じような運命をたどったかもしれないが、幸運にも時代が少しばかり動いていた。


 鉄道会社の東急電鉄をバックに持つ東急レクリレーションによる「シネマスクエアとうきゅう」誕生のいきさつについて、寺尾さんはこう振り返る。


 「当時、この会社から新しい劇場を作りたいので、ヘラルド・エースに手伝ってほしいと打診があったようです。場所は歌舞伎町(東京・新宿)のミラノ座のあるビルですが、『シネマスクエアとうきゅう』ができる前は倉庫か何かで、使われていなかったスペースを改築して劇場にしたようです。思えばウナギの寝床のように長い不思議な形の劇場ですよね。かける映画はエースの責任者だった原正人社長が各映画会社をあたって眠っていた作品を探していました」



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