1. CINEMORE(シネモア)
  2. NEWS/特集
  3. 【ミニシアター再訪】第2回 1981・・・その2
【ミニシアター再訪】第2回 1981・・・その2

【ミニシアター再訪】第2回 1981・・・その2

PAGES


大手映画会社にはお宝が眠っていた



 当時、ハリウッド系の大手洋画配給会社の倉庫にはお宝映画が眠っていた。そうした作品にはすでに日本での上映権があり、プリントも到着しているので、字幕さえつければすぐに公開できる。通常の洋画公開は、まず日本での配給権の交渉から進めるが、そうしたプロセスをカットできるので、とても効率のいいやり方だ。


 その結果、CIC(後のUIP)からは『エイリアン』(79)で一躍有名になったリドリー・スコット監督のデビュー作『デュエリスト/決闘者』(77)やテレンス・マリック監督の幻の名作『天国の日々』(78)などが海外公開から数年遅れで陽の目を見ることになった。ワーナー・ブラザースからはシドニー・ルメット監督がヒット舞台を映画化したマイケル・ケイン主演の『デストラップ・死の罠』(82)、コロムビア映画からはアルバート・フィニー主演の『ドレッサー』(83)などが発掘された。


 エースが声をかけた会社はハリウッド系のメジャー会社だけではなかった。東映の洋画配給部が持っていたソビエト映画『モスクワは涙を信じない』(79)、大映のハンガリー映画『メフィスト』(81)といった2本のアカデミー外国語映画賞受賞作も蔵出しとなる。


 「シネマスクエアとうきゅう」が入る歌舞伎町の東急ミラノビルには大劇場のミラノ座をはじめとするいくつかの映画館が入っていて、映画ファンにはすでに名前が浸透していた。その3階のデッドスペースを224席の映画館に変えることで、この新しい劇場は世界中の埋もれた名作を上映できる場所を作ろうと考えた。


 70年代の先駆的なミニシアターだった神保町の岩波ホール、81年にできた六本木の俳優座シネマテンや渋谷のPARCOスペース・パート3は、多目的ホールや演劇の劇場を映画館として利用することで生まれたが、「シネマスクエアとうきゅう」は最初から映画の常設館をめざした初のミニシアターとなった。


 『ジェラシー』がオープニング作品に決まり、81年12月の封切りに向けて、東急レクリエーションとヘラルド・エースはさらに新しいアイディア盛り込んだ映画館作りに挑戦することになる。(この話題は次回に続く)



◉向かいにあった新宿コマ劇場が現在取り壊され、空間の様相が著しく変化するなか、シネマスクエアとうきゅうは歌舞伎町の夜にいまも光を放っている(2013年撮影)



前回:【ミニシアター再訪】第1回 1981・・・その1

次回:【ミニシアター再訪】第3回 1981・・・その3



文:大森さわこ

映画ジャーナリスト。著書に「ロスト・シネマ」(河出書房新社)他、訳書にウディ・アレンの評伝本「ウディ」(D・エヴァニアー著、キネマ旬報社)他。雑誌は「ミュージック・マガジン」、「キネマ旬報」等に寄稿。ウエブ連載をもとにした取材本、「ミニシアター再訪」も刊行予定。



※本記事は、2013年~2014年の間、芸術新聞社運営のWEBサイトにて連載されていた記事です。今回、大森さわこ様と株式会社芸術新聞社様の許可をいただき転載させていただいております。なお、「ミニシアター再訪」は大幅加筆し、新取材も加え、21年にアルテス・パブリッシングより単行本化が予定されています。

PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. NEWS/特集
  3. 【ミニシアター再訪】第2回 1981・・・その2