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【ミニシアター再訪】第3回 1981・・・その3

【ミニシアター再訪】第3回 1981・・・その3

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情報誌にコラム風の連続広告を打つ



 椅子や入場方法、さらに興行形態など、あらゆる部分で従来とは異なるシステムを持ち込もうとしたが、作品の売り方も、大衆的なエンタテインメント作品とは異なる知的贅沢感を打ち出した。オープニング作品『ジェラシー』(79)では一風変わった連続広告を東京の情報誌「シティロード」に打つことになった。


 同じタウン誌でもより一般的だった「ぴあ」はどの作品もカタログ的な短い文章で紹介されていたが、「シティロード」は曲者のライターたちがこだわりと批評性の強い文章を書いていて、編集者も長文の作品評や取材記事を好んでいた。そんな雑誌の読者にアピールすることで、『ジェラシー』という作品、ひいては「シネマスクエアとうきゅう」の斬新なクオリティをアピールしようと考えたようだ。


 81年の6月号から10月号まで連続広告が出たが、どれもカラーの大きな場面写真と800字ほどのコラム付きで、世紀末、ウィーン、音楽、美術、映画の5つの項目に分けて、映画の楽しみ方を伝えている。


 「雑誌を開いてすぐのページをもらう、ということを条件に、5回で100万円に広告料をまけてもらいました。カラーポジの場面写真を50種類くらい用意してからデザインを決め、毎回、違う写真を出しました」



◉『シティロード』81年10月で表2対向面に掲載された『ジェラシー』の広告。「その裂け目に男を引きずり込む女」のキャッチフレーズはあまりに印象的


 ポスターを作る時は作品の視覚芸術的な要素を強く打ち出すため、劇中に出てくるグスタフ・クリムトの絵画を生かすことにした。


 「B全のポスターを作ることになりましたが、その時、“嫉妬は緑色の目の悪魔である”という「オセロ」からの言葉をアレンジしてキャッチコピーに使うことになり、画集で見つけたクリムトの絵の横に載せようと思ってデザイナーに渡しました。勝手に絵を引き伸ばし、まるでその絵をけがすかのように、場面写真を散りばめたポスターです。すごくいいかげんな時代で、版権のことなんて何も考えていませんでした(笑)。この映画がきっかけでクリムトの絵に興味を持ち、出張で訪ねたウィーンの美術館で本物を見ることができました」


 寺尾さん同様、私もこの映画を通じてクリムトやエゴン・シーレの絵を知り、試写を見た後、伊勢丹美術館で開催中だったクリムトとシーレの絵画展に行った覚えがある。


 映画を経由して新しい別のカルチャーと出会う。そんな楽しみ方を教えてくれる作品がミニシアターでは数多く上映されることになる。


 「あの頃、文化の変わり目というか、これまでとは違うものが生まれつつあった時代かもしれません。映画の内容もそうですが、原稿を書くライターたちも、従来の古いタイプの映画評論家とは違う人たちが出て、自由な文章を書き始めていたし、雑誌も「ポパイ」や「ブルータス」のように、これまでなかった雑誌が注目されていました」


 そういえば六本木の「俳優座シネマテン」では「ブルータス」のプロデュ―スによる“ブルータス座”という上映会(新作の試写や旧作の上映)も行われ、ひそかに人気を集めていた。


 人気雑誌と映画館が手を組んで定期的におすすめ作品を一晩だけ上映する。そんな状況も70年代には見られなかった傾向で、大手の商業館ではなく、パーソナルなミニシアターだからこそ実現できたのだろう(80年代、私も「ブルータス」で、時々、仕事をしていて、『さらば青春の光』(79)の上映を提案して採用していただけた時はうれしかった)。


 81年には多目的スペース「PARCOスペースパート3」も誕生し、渋谷の先駆的なミニシアターとなったが、このスペースでの最初のイベントはルキノ・ヴィスコンティの衣装展と彼の映画祭だった。同じ場所を使って、衣装展と映画祭を行うという試みも大きなロードショー館では実現しなかった企画だ。



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