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【ミニシアター再訪】第3回 1981・・・その3

【ミニシアター再訪】第3回 1981・・・その3

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あえて新しいことに挑戦した大手企業



 81年の先駆的なミニシアターとなった「俳優座シネマテン」「PARCOスペースパート3」「シネマスクエアとうきゅう」は、いずれもヘラルド・エースと縁があり、この会社の作品をよく上映していた。


 実はエースの代表者の原社長は黒澤明監督の『』(85)の製作者で、製作・配給に関して多くの偉績を残した伝説的なプロデューサーであるが、そんな社長と運営側である東急レクリエーションの武舎忠一部長、堀江鈴男常務といったパイオニア・スピリットを持った人々が手を組むことで、その後のミニシアターの基礎となる「シネマスクエアとうきゅう」が誕生することになる。


 「東急レクリエーションは大手企業ですが、そこに武舎部長のように太っ腹な方がいたからこそ、この劇場は生まれました。新米の宣伝マンだった僕にとっては、ひとつの劇場を立ち上げて、そこの作品を宣伝していくのが本当におもしろかった。『シネマスクエアとうきゅう』のコンセプトを守るため、他社が権利を持つ作品もエースが宣伝を担当しましたが、そうした会社の担当者からも特別な注文はなく、劇場の存在をおもしろがってもらえました。あの頃、マーケティングなんて言葉は誰も意識していなくて、自由に宣伝していました」


 ちなみにワーナー・ブラザースの担当者は無類の映画好きで、その映画人生が「ロードショーが待ち遠しい/早川龍雄氏の華麗な映画宣伝術」(藤森益弘著、文藝春秋社刊)でも綴られた気骨のある早川龍雄さん、CIC(後のUIP)は知的で優雅な雰囲気の故・高橋美子さん、コロムビアはいつも元気な鹿野教子さん。洋画界では名物宣伝マンとして知られていた最強のメンバーたちが新劇場の窓口を担当していた。


 劇場の個性を浸透させたのは宣伝だけではない。「シネマスクエア・マガジン」と題されたハンディなサイズの豪華なプログラムも作られたが、これも当時としては新しいスタイルだった。


 劇場の番組選定委員を担当していたのは映画評論家の故・南俊子さんで、同じく映画評論家の小藤田千栄子さんの編集協力も得ることで、カラーの上質紙を多用した中身の濃いプログラムが毎回作られた。当時のパンフレットは縦30センチほどの大判のものが主流だったが、このマガジンはパリの情報誌「パリ・スコープ」を参考にして作られ、女性のハンドバッグに入るサイズ(縦22センチ、横15センチ)ということで考案された。



◉「シネマスクエア・マガジン」のバックナンバー一覧。このような掲載のされ方自体、映画パンフレットとしては異例だった。フランス在住のプロデューサー、吉武美知子さんも定期的に寄稿されていた。


 さらに「マガジン1」「マガジン2」と通し番号を打つことで、劇場の固定ファンを作ることにも貢献していた。ちなみにオープニング作品『ジェラシー』のプログラムには、先日亡くなった大島渚監督が「『ジェラシー』との奇縁」という文章を寄せている。実は大島監督の『戦場のメリークリスマス』(83)と『ジェラシー』はどちらもジェレミー・トーマスの製作作品だ(新人だった私はこのマガジンで3年ほど、シナリオ採録の仕事をいただいた。シナリオの要約の仕事で、ふだんは手にできないオリジナル・シナリオを読めるのがうれしかった)。



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