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【ミニシアター再訪】第3回 1981・・・その3

【ミニシアター再訪】第3回 1981・・・その3

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公開があやぶまれたアート系邦画が大ヒット



 初代の堀江利行支配人は、寺尾さんによれば大の映画好きだったという。「シネマスクエア・マガジン」の記念すべき創刊号に掲載された寺尾さんらとの座談会の中で、支配人は拡大公開というシステムの弊害で、公開されない洋画が増えたことを嘆いている。


 「(この劇場を作るにあたり)興行者側も、配給者側も、映画ファンの立場にかえって考えたわけです。六年前からの構想だったのですが、ようやく長年の夢が実現したという、今はその感慨にひたっているところです」と語っている。


 関係者たちの熱意と情熱の結晶ともいえる革新的な劇場「シネマスクエアとうきゅう」。81年12月11日に『ジェラシー』でこけら落としを迎えるが、新劇場に対する話題もあってか、結果的には7週間上映の快挙となった(毎週、金曜日と土曜日にはレイトショーも行われた)。


 その後も、フランスの巨匠フランソワ・トリュフォー監督の『隣の女』(81、12週)、スペインのカルロス・サウラ監督の『カルメン』(83、15週)など数多くのヒット作が生まれていく。寺尾さんは当時を振り返る。


 「僕自身が今も忘れられないのは、オープニングの『ジェラシー』。それと柳町光男監督の『さらば愛しき大地』(82)です。シネマスクエアで初めて上映された邦画で、当時の地方(茨城)の町の実態を映し出した作品として話題を呼びました。監督もすごくやる気がありましたし、実在のモデルがいるという映画の内容もリアルでした」


 『さらば愛しき大地』は他の劇場では難色を示され、ここでの上映が決まったが、結果的には12週上映の大ヒットとなった。ヨーロッパやアメリカの埋もれた作品だけではなく、邦画の力作にも新劇場は救いの手を差し伸べた。86年には中国映画界の新しい才能、チェン・カイコー監督の『黄色い大地』(84)を上映し、アジアのアート系映画にも門戸を開くことになる。


 世界中の埋もれた名作を発掘する革新的な映画館としてスタートした「シネマスクエアとうきゅう」。80年代初頭、そこに並んだ224席の椅子には新時代の夢と理想が託されていた――。 



◉景気の後退と法律による規制の強化で、歌舞伎町の喧噪もバブル期と比べると翳りを見せている。(2013年撮影)



前回:【ミニシアター再訪】第2回 1981・・・その2

次回:【ミニシアター再訪】第4回 六本木からのNew Wave・・・その1



文:大森さわこ

映画ジャーナリスト。著書に「ロスト・シネマ」(河出書房新社)他、訳書にウディ・アレンの評伝本「ウディ」(D・エヴァニアー著、キネマ旬報社)他。雑誌は「ミュージック・マガジン」、「キネマ旬報」等に寄稿。ウエブ連載をもとにした取材本、「ミニシアター再訪」も刊行予定。



※本記事は、2013年~2014年の間、芸術新聞社運営のWEBサイトにて連載されていた記事です。今回、大森さわこ様と株式会社芸術新聞社様の許可をいただき転載させていただいております。なお、「ミニシアター再訪」は大幅加筆し、新取材も加え、21年にアルテス・パブリッシングより単行本化が予定されています。

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