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【ミニシアター再訪】第6回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その1 PARCO・スペース・パート3

【ミニシアター再訪】第6回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その1 PARCO・スペース・パート3

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 都内でミニシアターのイメージが強かった街といえば渋谷。80年代以降、新しい劇場が次々に登場して、若い観客をひきつけた。


 そんな中で先陣を切ったのが、PARCOの中にあったスペース・パート3である。オープンは1981年の9月。81年は都内のミニシアター元年で、新宿のシネマスクエアとうきゅう(12月)や六本木の俳優座シネマテン(3月)などもスタートした。


 スペース・パート3は、多目的ホールとしてオープン。映画の上映も積極的に行い、時には俳優座シネマテンと手を組みながら、『眺めのいい部屋』(86)や『アナザー・カントリー』(84)などのヒットを放つ。


 また、独自の路線としては、今もカルト的な人気を誇るアレハンドロ・ホドロフスキー監督の伝説の映画『エル・トポ』(69)やジョン・ウォーターズ監督の『ピンク・フラミンゴ』(72)、アレックス・コックス監督の『シド・アンド・ナンシー』(86)、滝田洋二郎監督の『コミック雑誌なんかいらない!』(86)といった個性的な作品も話題を呼んだ。


 そして、90年代にはシネクイントとして生まれ変わり、ヴィンセント・ギャロ監督の『バッファロー66』(98)を大ヒットさせている。


 現在は18年と19年に始まった3つの新生シネクイントも運営している。


 40年間に渡って渋谷のミニシアター界に影響を与えてきたPARCOの原点を、かつてセールス・プロモーション部に在籍した根占克治さんが振り返る。


※以下記事は、2013年~2014年の間、芸術新聞社運営のWEBサイトにて連載されていた記事です。今回、大森さわこ様と株式会社芸術新聞社様の許可をいただき転載させていただいております。


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おもしろいことを見つける



 80年代は都市文化が注目された時代だった。日本経済も絶好調で、パリやニューヨークなどの影響を受けながら、東京も国際都市の仲間入りを果たし、街中に明るいエネルギーがあふれていた。


 ミニシアターという(当時は)新しかった文化も、東京を中心に発展していったが、80年代のミニシアター界を振り返った時、最も勢いのあった街として浮かぶのが渋谷である。シネセゾン渋谷、シネマライズ、ユーロスペース、Bunkamuraル・シネマをはじめ、多くのミニシアターが誕生し、それぞれに個性を発揮していた。


 その渋谷の最初の商業的なミニシアターはここにあげた劇場ではなく、実はPARCOのスペース・パート3(後のシネクイント)だった。オープンは1981年9月11日。ここを映画館と呼ぶことに抵抗を持つ人もいるかもしれない。常設館ではなく、演劇や展覧会など、ジャンルを超えたイベント会場として使われていたからだ。


 上映された作品群の系譜もバラバラな印象があるが、たどり直してみると、内容的にはおもしろいものが上映されている。


 スペース・パート3の最初のイベントは「ヴィスコンティとその芸術」。イタリアのルキノ・ヴィスコンティ映画祭とその衣装展だった。衣装展の方はヨーロッパの他の都市でも行われていたが、東京でのイベントは、当時パルコの名コピーライター(クリエイティヴ・ディレクターも担当)の小池一子さんのプロデュースで、本国での点数を上回る華麗な衣装の数々が展示された。


 一方、映画祭の方は後に配給会社ケーブルホーグを作ることになる根岸邦明さんも参加していて、初期の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(42)から晩年の『イノセント』(75)まで9本のヴィスコンティ作品が上映され、地方からわざわざ映画祭を訪れたヴィスコンティ・ファンもいたという(ビデオがない時代なので、こういう映画祭でしか過去の作品を見ることができなかった)。







◉「ヴィスコンティとその芸術」展の図録。奥付にはパルコのクリエイティブ・ディレクターだった小池一子、ヴィスコン ティ研究の第一人者柳澤一博、元ケーブルホーグの根岸邦明、服飾研究家の深井晃子の名がある 


 衣装展と映画祭。それはこのスペースにはふさわしい出し物だった。それというのも、パルコはひとつのジャンルの枠にとどまらない見せ方を好んだからだ。


 スクリーンで映像を見て完結するのではなく、そこに出てきた衣装も楽しむことで、ヴィスコンティが象徴するヨーロッパ文化の華やかな雰囲気にふれる。そんな広がりのあるイベント精神がパルコにはあったようだ。


 80年代のスペース・パート3の方針について振り返ってくれたのが、当時、スペース・パート3のSP(セールス・プロモーション)部に所属していた根占克治さんだ。彼は当時の方針を語っている。


 「いろいろな情報を発信していこうというのが、パルコの増田通二社長の中にはありましたね。劇場があって、出版があって、催事があって、その中に映画がある。さらにちょっと遅れてクラブ・クワトロというライブハウスもできました。パルコの場合、演劇に関しては西武劇場〔現パルコ劇場〕があって、安部公房や寺山修司などのすごい舞台が多かったのですが、映画には大きな比重が置かれているわけではなく、パルコでの出し物のひとつという扱いでした。だから、ゲリラ的にいろいろなことをやっていました」



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