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【ミニシアター再訪】第6回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その1 PARCO・スペース・パート3

【ミニシアター再訪】第6回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その1 PARCO・スペース・パート3

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タヌキの街にパルコが登場



 根占さんはパルコ誕生の経緯についても語ってくれた。


 「パルコは西武〔流通グループ〕系の会社で、増田社長は西武の堤清二社長の学校の同級生で、教師をやめて36歳で西武に入社した方です。まずはパルコの第一号店、池袋パルコを作ったわけですが、当時は資金が十分になかったので、山口はるみさんがイラストを描いたポスターを街にバンバンはって、宣伝につとめました」


 池袋パルコは69年に誕生した。隣には本家の西武デパートがあったが、パルコは170のテナントを集めたファッションビルというコンセプトでスタートし、ファッションに対して新しい意識を持った団塊の世代の若い女性にアピールすることで成功した。


 73年には渋谷パルコがオープンするが、この時は(まだ)タヌキが出るといわれていた駅から900メートルほどの区役所通りを「公園通り」(パルコとはイタリア語で公園の意味)と呼び、より洗練されたストリートに変えようとした。


 その結果、最先端のファッションビルとして若い層の支持を得て、8年後の81年に3つめの渋谷でのビル、パルコ・パート3が完成する。「公園通り」以外にも、「スペイン坂」「ファイア通り」「オルガン坂」など、パルコの発案で周辺の路地に名前がつけられ、街作りにも貢献した。


 83年3月11日の『朝日新聞』には「パルコの横の大きな壁をウォールペインティングによる宣伝の場所に使うことを提案する」という内容の記事も載り、「街自体が新しい情報を発信する媒体になりつつある」と増田社長は語っている。


 「増田社長は雑誌ではパロディ誌の『ビックリハウス』も創刊しています。編集を担当したのは劇団の天井桟敷にいた萩原朔美さんと榎本了壱さんで、当時のアメリカの雑誌がモデルになっているようです。他にも日本パロディ展や日比野克彦を発掘した日本グラフィック展などもありました。王道の西武デパートに対して、自分たちはサブカルチャーでいく、というのが、増田さんの中にはいつもあったようです」と根占さんは言う。


 サブカルチャーというと、今はアニメ・カルチャーなども視野に入るようだが、当時は違う意味を持っていた。王道のメイン・カルチャーに対して、サブカルチャーがあり、中心からはずれた音楽や小説など、さまざまなジャンルのものを意味していた(たとえばクラシック音楽は王道だが、ロックはサブカルチャーだった)。 


 ヴィスコンティという出し物は、今、考えると、サブカルチャー的ではないが、当時、日本ではヴィスコンティ・ブームが巻き起こっていたので、最先端をめざすファッションビルにふさわしい最初のイベントに選ばれたのだろう。



◉オープン前日にあたる1981年9月10日の『朝日新聞』夕刊に掲載されたパルコ・パート3オープンの全面広告(縮刷版コピー)




◉同紙8月10日朝刊の東京面に掲載された記事。「ヒューマンサイズ〔=巨大すぎないスケールのことを指すらしい〕」の公園通りらしさを演出するため、「派手な宣伝をせず、さりげなく開店する」というところにパルコの自信が透けて見える(縮刷版コピー) 


 複数の作品を集めた映画祭や連続上映はパルコが得意とすることで、ヴィスコンティ映画祭の後は伝説のサイレント女優、グレタ・ガルボの作品を集めた「グレタ・ガルボ映画祭」が行われている。また、80年代後半にはヘルマン・ヘッセの小説にヒントを得た「魔術劇場atレトロ」と題されたユニークな連続上映もあり、ヘッセ原作、ドミニク・サンダ主演の実験的な作品『ステッペンウルフ/荒野の狼』(74)やテレンス・スタンプが詩人ランボー役を演じた『ランボー/地獄の季節』(71)なども上映された。


 『暗殺の森』(70)のヒロインとして知られるサンダは70年代後半にパルコのCFに出演していて、ミステリアスな美しさを漂わせたヨーロッパの人気女優だった(彼女やフェイ・ダナウェイが出演していた70年代のパルコのCFは鮮烈なインパクトを映画ファンに残したものだ)。


 そうしたCFの流れを組んで『ステッペンウルフ』や『ルー・サロメ/善悪の彼岸』(77)のように、日本ではオクラになっていたサンダの出演作が、80年代後半になってから陽の目を見たのだ。ヨーロッパ映画の場合は、同じく81年にスタートしていた六本木の俳優座シネマテンと共同上映が行われることもあり、シネマテンと手を組むことで『アナザー・カントリー』(83)や『眺めのいい部屋』(86)といった大ヒット作も生まれている。


 「シネマテンとはお互いの足りない部分を補っていたと思います。シネマテンは情報を握っていて、映画に関するノウハウがありましたが、パルコには資金力がありました。スペース・パート3の場合、次の出し物が決まっていると、映画がヒットしてもロングランできないという難点がありましたが、シネマテンはそういう制限がありませんでした。また、シネマテンは夜の上映が中心でしたが、パルコはもっと早い時間の上映でした」



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