1. CINEMORE(シネモア)
  2. NEWS/特集
  3. 【ミニシアター再訪】第7回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その2 渋谷の夜を変えた音楽映画 前編
【ミニシアター再訪】第7回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その2 渋谷の夜を変えた音楽映画 前編

【ミニシアター再訪】第7回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その2 渋谷の夜を変えた音楽映画 前編

PAGES


無名だったジョナサン・デミ監督の音楽映画



 当時のKUZUI エンタープライズを振り返ると、そんな場面がスナップ写真のように浮かんでくる。いま、考えると、そこにはニューヨークの風が吹いていて、その風に吹かれたくて立ち寄っていたのかもしれない。


 『ストップ・メイキング・センス』(84)や『バグダッド・カフェ』(87)、デイヴィッド・リンチの『ワイルド・アット・ハート』(90)、コーエン兄弟の『バートン・フィンク』(91)など、この会社の配給作品にはその後のインディペンデント映画界を変えていくような力を秘めていた。


 前回、掲載したパルコ・スペース・パート3の映画担当の根占克治さんの発言によれば、トーキング・ヘッズのライブ映画『ストップ・メイキング・センス』は渋谷のミニシアターのレイトショーの流れを大きく変えた映画で、パルコでレイトショーを始めたひとつのきっかけになったという。


 この映画の監督はインディペンデント映画界出身のジョナサン・デミで、当時、日本では『女刑務所・白昼の暴動』(74)や『怒りの山河』(76)といったB級テイストの作品しか公開されていなかったが、私はたまたまアメリカで『メルビンとハワード』(80)という日本未公開作を見ていて、デミ映画の意表をつくユーモアのセンスにほれ込んだ。


 特にヒロインがテレビのクイズ番組で、ザ・ローリング・ストーンズの曲に合わせてキュートなタップ・ダンスを見せる場面に大笑い。


 音楽センスのいい監督に思えたので、『ストップ・メイキング・センス』にも個人的には見る前から期待が高まっていた(当時、デミは日本では無名だったが、後に『羊たちの沈黙』(91)を作ってオスカー監督となる)。


 この作品の配給でKUZUI エンタープライズは本格的に外国映画を輸入する配給会社として動き始めた。会社設立時のメンバーは4人。そのひとりだった遠藤久夫さんと再会して、当時の話を聞くことになった。


 同じく初期スタッフだった伊地知徹生さん(当時アメリカのニューメキシコ州サンタフェ在住。インディペンデント映画の配給・製作にかかわる)には国際電話で話してもらったので、そのコメントもまじえながら会社のはじまりについて振り返りたい。


 遠藤さんはファッション誌で広告営業を担当した後、新宿のシアター・アップルで『レゲエ・サンスプラッシュ』(80)というレゲエの映画を上映した。結果的にはまずまずの成功で、今度は『カントリーマン』(80)という別のレゲエ映画の宣伝を依頼された。


 「この映画は残念ながらヒットしなかったんですが、この映画を配給した松竹富士の紹介で葛井克亮社長や奥さんのフランと知り合いました。ご夫婦がKUZUI エンタープライズを作ることになり、『ストップ・メイキング・センス』の宣伝を手伝うことになったんです」


 一方、伊地知さんは日本のインディペンデント監督、山本政志のデビュー作『闇のカーニバル』(81)の共同プロデューサーのひとりで、葛井社長とはカンヌ映画祭で出会った。この作品が映画祭の批評家週間で上映されることになった時は、社長が通訳も担当してくれたという。


 「その頃、電通映画社で企業PRの映画やコマーシャル・フィルムなども作っていたんですが、その前に自主映画の上映や興行も手がけていたので、電通での現場に飽き足りないものを感じました。そんな時、社長に誘われて新しい会社に参加することになりました」


 通常の映画会社には上司にベテランの宣伝マンがいて、宣伝のノウハウを新人に伝えるが、この会社は個人として独立した立場で仕事をしていた人をあえて集め、試行錯誤も覚悟しながら宣伝にチャレンジすることになった。


 葛井克亮社長は映画・演劇界の伝説の人物、葛井欣士郎の甥にあたる。叔父の方は60年代以降、『尼僧ヨアンナ』(61)、『アメリカの影』(59)、『去年マリエンバートで』(60)など、内外の個性的なアート映画の公開に大きく貢献したアートシアター新宿文化の支配人。ミニシアターの元祖的な劇場を経営していた叔父から新時代のバトンを渡されたのだ。


 克亮社長の方は、70年代にニューヨークで角川映画『人間の証明』(77)のロケが行われた時は助監督として参加。その時、スタッフのひとりで、後に社長のパートナーとなって、共にKUZUI エンタープライズを始めるフランと出会った。社長はアメリカで映画作りに参加しているうちに、ニューヨークのインディペンデント映画界に人脈ができたという。


 80年代に入ると先駆的なヒップホップ映画『ワイルド・スタイル』(82)を83年に公開している(配給は大映インターナショナルに委託)。当時のニューヨークのストリート・カルチャーを紹介するドキュメンタリー調の作品だ。


 その頃、ハリウッド産のダンス映画『フラッシュダンス』(83)がひと足先に日本では大ヒットしていて、大半の人はこういうヒット作を通じてヒップホップ・ダンスも知ったが、インディペンデント映画の『ワイルド・スタイル』には“原液のニューヨーク”ともいえるリアルな魅力があった。


 作品の中にはキース・ヘリングを思わせるグラフィティ・アートのペインターも登場する。後にKUZUIはキースの日本でのマネージメントも担当するが、そんな葛井社長の嗜好性が分かるニューヨークのストリート映画だった(ヒップホップ映画のルーツとなり、その後、日本でも何度かリバイバル上映)。



PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. NEWS/特集
  3. 【ミニシアター再訪】第7回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その2 渋谷の夜を変えた音楽映画 前編