80年代、渋谷の小さな映画会社としてスタートしたものの、輸入した作品をかける劇場がすぐには見つからなかった……。そんなKUZUIエンタープライズの挑戦をめぐる物語。
公開が危ぶまれていたトーキング・ヘッズの音楽映画『ストップ・メイキング・センス』(84年、『羊たちの沈黙』のジョナサン・デミ監督)はどんな方法で成功し、渋谷の夜を変えていったのだろう?
後に『バグダッド・カフェ』(87)やデヴィッド・リンチの監督作もヒットさせ、さらに成長していく会社の奮闘記の後編をお届けしよう。
※以下記事は、2013年~2014年の間、芸術新聞社運営のWEBサイトにて連載されていた記事です。今回、大森さわこ様と株式会社芸術新聞社様の許可をいただき転載させていただいております。
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レイトショーの利点を生かす
アメリカでの公開から1年遅れて『ストップ・メイキング・センス』(84)の日本公開が実現するが、クズイ・エンタープライズでの配給が実現したのも、これまでの葛井克亮社長のニューヨークでの人脈があってこそだった。宣伝を担当していた遠藤久夫さんは振り返る。
「当時の葛井社長はニューヨークの映画人に信頼される存在になっていたので、普通では考えられないほど有利な条件で、映画を配給できることになったんです。日本側のリスクが少ない契約で、特別待遇ともいえる条件でした」
もっとも、配給権は得たものの、映画をかける劇場がすぐには見つからなかった。
「新しい会社だったので、当時はどこも見向きもしてくれなかったです。この作品だけではなく、クズイが持っていた音楽感性の映画をかけるための劇場探しは大変でした」
辛抱強く劇場を説得してまわり、渋谷ジョイシネマ、新宿の歌舞伎町シネマ2、吉祥寺のバウスシアターなどが公開の話に乗ってくれて、レイトショーという形で上映が実現した。ジョイシネマや歌舞伎町シネマ2はいわゆるミニシアターではなく、ふだんは拡大系の娯楽映画をかけていたが、そんな劇場がインディペンデント系映画の上映にチャレンジしてくれた。
社長が『ストップ・メイキング・センス』のポスターの裏に掲載した文章を引用すると――。
「ストップ・メイキング・センス〔概念にこだわらないとか理屈で考えるのはよそうとかのニュアンス〕というタイトル通り、この映画は音楽的世界と演劇的世界と映画的世界が見事に融合したスタイルをもっている」
「〔アメリカでの〕宣伝はマス宣伝ではなく、観た人々の口から口へ、この映画のすばらしさが伝わっていく。人々がロスやニューヨークへ旅行する時、この映画を観ていくのが目的のひとつになってくる」
「日本でも今や若者達は個人主義に目覚め始め、マスによる与えられた宣伝に拒絶反応が出て来ている。知る人ぞ知るという良い作品を自分たちで見つけ、口から口へと伝えていく感覚が時代の流れになってきているように思える。日本の若者達の感覚も、まさにストップ・メイキング・センス!、である」
「各映画会社に配給を依頼したが、なかなかストップ・メイキング・センスの感覚で興行するのは現実的に受け入れ体制が整っていないという理由で公開が決まらなかったが、〔3つの劇場の〕人々とストップ・メイキング・センスの感覚で共感。映画のプロデューサーも賛同し、我々自身がストップ・メイキング・センス!のフィーリングで配給することになった」
「時間はかかるだろうが、なぜ、今、ストップ・メイキング・センスの時代なのかが、口から口へと拡まって、理解されていけば幸いと思う」
レイトショー公開は、保証金を映画館に積まなくてはいけない昼間の興行と違って、リスクが少なかったという。「1日1回だけの興行なのが逆によかったと思います」と遠藤さん。その方がかける側は金銭的な負担が少ないし、劇場側も夜7時からのロードショーが終わった後のあき時間を利用できるからだ。
◉『ストップ・メイキング・センス』の日本版ポスターの裏と表。モノトーンのデザインで統一された。