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【ミニシアター再訪】第9回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その4 好奇心をくすぐるユーロスペース 前編

【ミニシアター再訪】第9回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その4 好奇心をくすぐるユーロスペース 前編

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 80年代前半、渋谷には次々にミニシアターが誕生する。その草分け的な劇場のひとつとなったのが、ユーロスペースである。


 その歩みをふり返るのは、現在注目を集める「ミニシアターを救えプロジェクト Save The Cinema」の呼びかけ人のひとり、北條誠人支配人。


 ユーロスペースは当初は75席の小さな劇場だったが、小さいからこそ、他にはできない大胆で斬新なプログラムが組めた。


 多目的ホールとしてスタートしたが、85年より常設館となり、メジャー系洋画会社に見捨てられた『ヴィデオドローム』(82、デヴィッド・クローネンバーグ監督)を本国より3年遅れでかけて話題を呼ぶ。


 やがて、異色ドキュメンタリー『ゆきゆきて、神軍』(87)が空前の大ヒットとなり、全国で知られるミニシアターに成長する。


 他がやらない過激な作風の映画にもあえて手を出し、成功を収めてきた劇場の物語を3回に分けてお届したい(今回の原稿は原文を大幅加筆)。


 なお、文中に登場するこの劇場の初期のメンバー、山崎陽一さんは2015年に他界された(享年60)。改めてご冥福をお祈りしたい。


※以下記事は、2013年~2014年の間、芸術新聞社運営のWEBサイトにて連載されていた記事です。今回、大森さわこ様と株式会社芸術新聞社様の許可をいただき転載させていただいております。


Index


人がやらないことをやる



 80年代半ばから後半にかけて、渋谷の桜丘町にあったミニシアター、ユーロスペースの事務所によく足を運んだ。劇場は南口の歩道橋に近い東武富士ビルの2階にあったが、事務所は少し離れたところにあり、住宅街の中に建つマンションの一室だった。


 ユーロスペース(以下、ユーロと表記)に行くと、世界中のインディペンデント映画界の新しい鼓動が感じられた。(前回、取り上げた)KUZUIエンタープライズのオフィスには映画や音楽、アートなどニューヨークを中心とする都市文化の風が吹いていたが、ユーロのオフィスではマイナーながらもこれからの時代をリードしそうな新鋭監督たちの作品をめぐる刺激的な話題が飛び交っていた。


 まだ、インターネットはなく、こちらが海外の雑誌や新聞から得た情報を携えて行くと、スタッフは映画祭やマーケットなどで入手した未公開作の資料を見せてくれた。そんな情報交換を通じて、配給会社や劇場と人間的なコミュニケーションが成立していた時代だった。


 創業者の堀越謙三社長はよくこう言っていた。


 「うちは業界の“離れ小島”だから」


 80年代は大手洋画メジャー会社が全盛期で、そんな会社と比較すると、配給会社としてのユーロの規模は小さく、また、自社で輸入した映画をかける劇場も75席とささやかだった(86年までユーロは映画の興行組合にも入っていなかった)。しかし、小規模だからこそ実現できる常識にとらわれない企画が、若かった私の知的好奇心をくすぐった。


 86年にリットー・ミュージックから刊行されたムック、『ザ・カルト・ムービー・ビデオ』で、当時、ミニシアターの運営や配給にかかわった関係者たちに私は取材しているが、その中には堀越社長もいて、こんな発言を残している。


 「ヘソ曲がりな性格だから、人がしないことをやりたいんだよね。昔は日本ではヨーロッパのものが見られなかったから、〔ドイツの新しい映画を〕買って自主上映の形で出していた。ミニシアターって、映画状況の中で欠落した部分を埋める役割を背負わされていると思う」



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