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【ミニシアター再訪】第9回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その4 好奇心をくすぐるユーロスペース 前編

【ミニシアター再訪】第9回 “渋谷劇場”の幕開け、ミニシアターの開花・・・その4 好奇心をくすぐるユーロスペース 前編

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ミニシアターのふたつの流れ



 まずは北條支配人にミニシアターの流れについて話してもらうことになった。彼がいうには、ミニシアターにはふたつの流れがあるようだ。






◉この劇場で上映された『レポマン』と『ZOO』の劇場プログラム(上)。当時のミニシアターはこうした印刷物に凝っていたが、ユーロスペースの場合はその厚さ(約1センチ)に驚かされる(下)。右ページのサインは『レポマン』のアレックス・コックス監督が筆者に贈ったもの。


 シネクラブ系で、自主上映の運動などを経て、ミニシアター作りにたどりついたケース。欧日協会として未公開のドイツ映画を配給してきたユーロも、この流れを汲んでいる。


 この流れとしては70年代にスタートした岩波ホールや実験映画の自主上映を行っていた映画学校のイメージ・フォーラム、語学学校のアテネ・フランセ文化センター等がある。後にミニシアター・ブームの中心となる配給会社、フランス映画社の経営者、柴田駿社長や故・川喜多和子副社長もシネマクラブの活動を経ている。


 「岩波ホールの場合は“マイノリティの表現”というか、ビジネスになりにくい題材の映画や小さな国の作品、社会的な内容のものを紹介していました。岩波書店が背景にあり、社会運動体としての意義がありました」


 もうひとつの流れが商業的な枠組みの中から出てきたミニシアター。最初に出てきたのが、この連載にも登場した新宿のシネマスクエアとうきゅうやシネ・ヴィヴァン・六本木などである。


 「東急エージェンシーが始めたシネマスクエアは女性の視点で作品を選んでいましたが、80年代初頭はそんなセンスが当時としては珍しかった。“〔劇場の〕椅子から考えました”というコンセプトや〔ハンドバッグに入るサイズの〕パンフレットという発想にも女性客を意識した視点が出ています」


 一方、シネ・ヴィヴァン・六本木についてはこう語る。


 「こちらは西武流通グループが始めました。アート性にこだわっていて、ヨーロッパの知的な映画を上映していましたが、浅田彰、中沢新一などニュー・アカデミズムの本が盛り上がっていたので劇場の個性が時代に合っていた。堀越社長はミニシアター第一世代ですが、僕は第二世代。学生時代にシネ・ヴィヴァンなどが作りだした新しいアート系映画の中で育つことができたので、ラッキーでした」


 ユーロもアート系映画を上映していたが、75席のユーロと143席のシネ・ヴィヴァンでは客席数が違う。


 「西武デパートの流通に勢いがあった中から出てきたのがセゾン文化なら、ユーロは産地直送の八百屋というか、ガンコじじいのこだわりのラーメン屋みたいなかんじでした。そして、下北沢の芝居小屋、ザ・スズナリが反核映画の上映を始めたり、地元密着型の吉祥寺のバウスシアターが『ストップ・メイキング・センス』を上映したりと、映画上映に関して自由な気風が広がったおもしろい時代でした。どこかパンク・ムーブメントのような動きだったと思います」


 映画の興行にはそれまで古い取り決めがあったが、タテマエ(興行界のルール)は捨て、ホンネ(作品の中身)で上映作品を選ぶ動きが出てきた。


 「80年代と90年代のミニシアターには、何をやっても許される雰囲気がありました。円高も背景にあるのかもしれない。90年代は円が100円を切るか、切らないか、という時期で、私たちのように小さな規模の会社でも買い付けができるようになったわけです」



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