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【ミニシアター再訪】第16回 映画の街・銀座からの巻き返し・・・その5 シャンテで大ヒット『ベルリン・天使の詩』

【ミニシアター再訪】第16回 映画の街・銀座からの巻き返し・・・その5 シャンテで大ヒット『ベルリン・天使の詩』

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 ミニシアターで大ヒットした映画の中には、なぜ、それほどまでに成功したのか、よく分からない作品もある。ヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』(87)もそうした1本ではないだろうか。


 モノクロの画面、難解なセリフ、ドイツの中年男優が主演、と、今の興行的な視点から見ると、どう考えても苦戦しそうな要素ばかり。しかし、1988年、ミニシアター文化が盛り上がった東京には妙にこの映画の雰囲気がハマった。


 当時、最も勢いのあった配給会社、フランス映画社が買い付け、東宝初のミニシアター、シャンテシネにかけた。シャンテがオープンして半年後のこと。その結果、連続上映30週間(約8か月)という記録を打ち立て、14万人を動員。シャンテ史上、ナンバーワンの大ヒット作となった。


 そんな社会現象を巻き起こした作品の公開顛末を当時の副支配人がふり返る。


 蛇足ながら、この映画の脚本を手掛けたドイツの作家、ペーター・ハントケは、2019年、ノーベル文学賞を獲得している。


※以下記事は、2013年~2014年の間、芸術新聞社運営のWEBサイトにて連載されていた記事です。今回、大森さわこ様と株式会社芸術新聞社様の許可をいただき転載させていただいております。


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すばらしい映画を買った



 多くのミニシアターは手探りの状態で劇場を開き、試行錯誤を繰り返すうちにその劇場の運命を変える映画と出会う。日比谷のシャンテシネ(現TOHOシネマズシャンテ)にとって『ベルリン・天使の詩』(87)はその後の劇場のあり方を決定づける作品となった。 


 シャンテのオープンの頃、係長を経て、副支配人だった東宝の高橋昌治専務取締役(当時)は、この映画が公開された時のことを振り返る。 


 「シャンテがオープンして半年が過ぎた頃、興行がいいものはいいけれど、きついものはきついので、劇場の今後をどうしようという意見が東宝内部で出ていたようです。シネ1とシネ2の2館があり、1館はミニシアターではなくて、普通のロードショー館にしてもいいという声がありました。もともと、会社のつきあいで入る政治的な番組もあったので、ミニシアターが2館ではなく、1.5館という感覚でしたが、それが1.0になろうとしていたんです」 


 ところが、『ベルリン・天使の詩』の成功で流れが変わった。 


 「この映画が大ヒットしたので、じゃあ、2、あるいは1.5でもいいかなという流れになり、それが今に至っていると思います。この作品の成功で、やっと劇場が軌道に乗ったという思いが当時はありました」 


 『ベルリン・天使の詩』の監督はドイツの“ニュージャーマン・シネマ”の旗手として世界的な注目を集めていたヴィム・ヴェンダース監督。日本では70年代に東京のホールで開催されたドイツ映画祭で代表作『アメリカの友人』(77)などが上映された。80年代半ばにはさらに大きな規模のドイツ映画祭が東急系劇場で行われ、この時、最新作だった『ことの次第』(81)と共に監督本人も来日した。 


 85年には『パリ、テキサス』(84年のカンヌ映画祭パルムドール受賞)がみゆき座で上映され、さらにファンも増えた。本国に戻って10年ぶりにドイツ映画として撮ったのが、『ベルリン・天使の詩』で、87年のカンヌ映画祭監督賞を受賞している。 


 「この作品をカンヌ映画祭で見たフランス映画社の社長、柴田駿さんから、とにかく素晴らしい映画を買ってきた、これは絶対にヒットするから、という話を聞いたんです」 高橋専務は初めて『ベルリン・天使の詩』の存在を知った時のことをそう回想する。 


 「ところが、その後、プリントや台本をとりよせたら、映像はすばらしいけれど、中身はむずかしい、ということが分かり、これはどうしようということになりまして……。実は簡単な内容の映画ではなかったんです」 



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