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【ミニシアター再訪】第20回 映画の街・銀座からの巻き返し・・・その9 シネスイッチ銀座が生まれた

【ミニシアター再訪】第20回 映画の街・銀座からの巻き返し・・・その9 シネスイッチ銀座が生まれた


 銀座の一等地にあるシネスイッチ銀座はミニシアター興行の金字塔『ニュー・シネマ・パラダイス』の大ヒットで知られている。もともとはミニシアターではなく、銀座文化という名前の名画座だったが、1987年に大改装をほどこす。


 その結果、ミニシアターとして新しく生まれ変わる。


 そんな劇場の誕生秘話を振り返ってくれたのは、『戦場のメリークリスマス』(83)や『』(85)の製作も手がけた映画界の重鎮、原正人プロデューサー。日本ヘラルド映画在籍時代には大作『地獄の黙示録』(79)の宣伝プロデューサーも務めた。


 自身が代表をつとめる配給会社、ヘラルド・エースは新宿の草分け的なミニシアター、シネマスクエアとうきゅうの誕生にかかわった。そして、今度は銀座に新しいミニシアターを作るためプランを練った……。


※以下記事は、2013年~2014年の間、芸術新聞社運営のWEBサイトにて連載されていた記事です。今回、大森さわこ様と株式会社芸術新聞社様の許可をいただき転載させていただいております。


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洋画と邦画をスイッチ



 銀座・日比谷周辺にミニシアターが登場したのは1987年。この年、3月に京橋寄りの銀座テアトル西友(後に銀座テアトルシネマ)、10月に日比谷のシャンテシネ(現TOHOシネマズシャンテ)といった劇場がオープンしたが、年末の12月に新たなミニシアターとして加わったのがシネスイッチ銀座である。


 銀座四丁目の交差点に立つ和光ビルの裏手にあり、日本で一番地代が高いといわれる鳩居堂ビル前からも近い。場所としては銀座の一等地だが、多くの人が行きかう交差点から一本入った路地に建っているせいか、劇場そのものには落ち着いた印象がある。劇場の正面にチケット売り場があり、白と黒のツートン・カラーで「CINE SWITCH」と書かれた小さな旗が劇場の周りに何本も飾られている。


 テアトル西友はセゾングループ、シャンテシネは東宝が新たに作った劇場だったが、シネスイッチはこうしたふたつの劇場とは違う流れで誕生した。


 「銀座文化」と呼ばれる劇場(地下1階と3階)がすでにあり、名画座や松竹系の封切り館として稼働していた。銀座文化劇場の誕生は昭和30年代。最初からミニシアターとして建てられたテアトル西友やシャンテシネとは異なり、すでに歴史のあった劇場がミニシアターに生まれ変わったのだ。


 誕生にかかわったのは、劇場を運営していた興行会社の籏興行、配給会社のヘラルド・エース、テレビ局のフジテレビだった。


 ヘラルド・エースはミニシアターの歴史の中では大きな役割を占めている配給会社で、80年代の新宿のシネマスクエアとうきゅうや90年代に誕生の恵比寿ガーデンシネマなどでも大きな役割を果たしてきた。


 シネスイッチの誕生についてはかつてヘラルド・エースの社長を務めていた原正人プロデューサー(当時アスミック・エース特別顧問、Hara Office代表)に話を聞くことができた。邦画界の名プロデューサーとしても知られる彼はヘラルド時代には『戦場のメリークリスマス』(83)、『乱』(85)、『失楽園』(97)などの話題作も製作している。


 多くのミニシアターは洋画上映が中心だったが、シネスイッチの場合、最初から邦画のための受け皿ということを想定していたようだ。劇場名の“スイッチ”は洋画と邦画のふたつのチャンネルを持つという意味でつけられた。21世紀に入ってからは洋画をしのぐ興行力を誇るようになった邦画だが、80年代は今とは状況が違っていた。


 「あの頃、邦画をかけられる劇場がなくて苦労していました。日本映画には出口がなかったんです。大手で全国公開できるものはいいんですが、それ以外の作品は本当に大変で、じゃあ、邦画のための単館が作れるのかというと、それもむずかしい。ひとつには予算の問題もありました。洋画の場合は1000万から3000万円ほどで権利を買えましたが、邦画は1本作るのに小規模のものでも5000万から1億円ほどかかっていたからです」


 当時の邦画と洋画の状況について原プロデューサーはそう語る。予算の問題もあって、当時の映画界では洋画を配給する方が金銭的なリスクも少なかった。しかし、フジテレビとの出会いを通じて、原プロデューサーは別の可能性を見出した。


 「フジテレビとは80年代、ヘラルド時代に『ナポレオン』(26)の特別上映で手を組みました」アベル・ガンス監督の20年代のサイレント映画が復元され、それが生オーケストラ付きで82年にNHKホールで上映された(オーケストラの指揮をとったのは、フランシス・フォード・コッポラの父、カーマイン・コッポラ)。フランシスがプレゼンターとなり、古い映画が現代によみがえる画期的なイベントだった。


 「その後は『南極物語』(83)や『瀬戸内少年野球団』(84)の公開の時もヘラルドと協力関係にありました。そこで培った人脈を生かして何かを始めたいと思っていたのです」


 90年代以降のフジテレビは「月9」の愛称で知られる数々のトレンディ・ドラマ(「ロング・バケーション」「ひとつ屋根の下」等)を連発して高視聴率を上げたが、70年代から80年代のフジはTBS、テレビ朝日、日本テレビほど強力ではなかったという。


 「だから、その頃のフジテレビは挑戦しなくてはいけない、と思っていたようです。テレビ界における新しいチャレンジャーとして、80年代のフジには元気がありました」


 当時のテレビ界はお笑いブームにわいていて、そんな中からビートたけしや明石家さんまといった新しいタレントが出てきたが、自由な発想で番組作りを進めていたフジテレビは彼らを起用した新感覚のお笑いバラエティ番組「オレたちひょうきん族」で人気を得ていた。また、目玉をかたどったテレビ局のシンボルマークにも斬新なインパクトがあった。


 「こういうものを世に送り出していた人々とも交流があり、その人脈と流れの中で日本映画を一緒にやろうということになりました。フジテレビとヘラルドの若手たちが上司を口説き、僕も彼らに口説かれ、その結果、籏興行の籏社長にお願いして、邦画も上映するシネスイッチが始まったのです」



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