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【ミニシアター再訪】第22回 映画の街・銀座からの巻き返し・・・その11 シネスイッチの定番『ニュー・シネマ・パラダイス』

【ミニシアター再訪】第22回 映画の街・銀座からの巻き返し・・・その11 シネスイッチの定番『ニュー・シネマ・パラダイス』

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1954年の日本



 映画の舞台となっている1954年は昭和29年にあたり、当時の日本は高度成長期に向かってつき進んでいた(昭和31年には「もはや戦後ではない」という声明も経済企画庁より出された)。 


 『朝日年鑑』で1954年の外国映画に関する記述を探してみると、ひとつの大きな傾向としてはシネマスコープの広がりがあるようだ。 


 「昭和28年(1953年)12月26日有楽座はシネマスコープ、20世紀フォックス作品『聖夜』を公開した。3Dと呼ばれる立体映画が、28年度で、あっさり姿を消し、この強力な大スクリーンによるシネマスコープが登場したわけで、これは映画界の大きな革命といえる。この勢いは急速に地方にも伸び、29年10月末で約100館がシネマスコープ劇場に転換した」 


 また、シネマスコープの動きと並行してビスタビジョンやシネラマなど他社による大画面の公開方式も登場。「この大スクリーン競争は、29年1年間で目まぐるしいほどの動きを見せた」。


 また、この年、『ローマの休日』が日本公開されてオードリー・ヘップバーンが大人気となり、日比谷映画劇場では約32万人を動員したという。「1人の女優の人気が、これほど話題になったことは、空前といってもいい。街にはヘップバーンスタイルの髪形がハンランし、この映画の人気をいやが上でも高めた」。 


 日本映画はその後の世界の映画史を変える黒澤明監督の大作時代劇『七人の侍』(54) や木下恵介監督、高峰秀子主演の教師と生徒の絆を描いた感動作『二十四の瞳』(54)が人気を得ていた。 


 54年に大スクリーン競争があったのは、当時の新しい映像メディア、テレビに映画が対抗意識を持ち、より映画らしい表現を模索していたせいだろう(日本では皇太子のご成婚が行われた5年後の59年、テレビの普及率が飛躍的に伸びる)。 


 一方、『ニュー・シネマ・パラダイス』が公開された89年は、当時のシネスイッチの支配人のコメントで分かるように、ビデオが新しかった時代。映画館で映画を見る良さを見直してほしいと支配人は思っていたのだろう。 



◉劇場プログラムには大林宣彦監督や作詞家・作家の阿久悠が寄稿し、それぞれの映画に対する思いを綴っている。



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