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【ミニシアター再訪】第27回 渋谷系の流行、ミニシアターの熱い夏・・・その4  シネクイントの誕生とギャロ・ブーム

【ミニシアター再訪】第27回 渋谷系の流行、ミニシアターの熱い夏・・・その4  シネクイントの誕生とギャロ・ブーム

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 パルコはミニシアターの開拓においてはパイオニア的な役割を果たしてきた。すでに連作でも紹介した81年スタートのパルコ・スペース・パート3は渋谷の商業的なミニシアターの第一号ともいえる場所だが、多目的スペースだったので、映画の上映が長く続けられないという欠点があった。


 そこで99年からシネクイントという名前の常設館に生まれ変わった。第一回作品はヴィセント・ギャロ監督・主演の『バッファロー‘66』(98)。これが異例の大ヒットとなり、ギャロ・ブームが起きた。


 シネクイントは順調なスタートを切り、その後も今をときめくクリストファー・ノーラン監督の『メメント』(00)、犬童一心監督の『ジョゼと虎と魚たち』(03)など、多くのヒット作を生んだ。近年の多くのミニシアターは中高年を意識したプログラムが組まれているが、この劇場は渋谷の若い層を意識した番組作りを行ってきた。


 ただ、2016年にパルコのビルの建て替えのため、一時休館となった。休館前に『バッファロー‘66』も特別上映が行われたが、公開から17年が過ぎても、映画の人気は健在でほぼ満席状態。ラストショーも温かい空気に包まれていた。ロビーでは観客たちが劇場とのしばしの別れを惜しんでいた(すでにDVDで見ていて、再確認に来たという若い観客もかなりいた。DVDで見た時はおもしろくなかったが、スクリーンで見て、やっとこの映画の良さが分かった、と語った観客もいた)。


 そして、近くにあった渋谷シネパレスの2館が、18年にシネクイントとして生まれ変わり、19年には新生パルコビルの中にホワイトシネクイントも誕生。現在は3館体制となった。


 新体制になる前にパルコの映像担当の堤静夫チーフ・プロデューサーがシネクイント誕生のいきさつと代表作について振り返ってくれた。


※以下記事は、2013年~2014年の間、芸術新聞社運営のWEBサイトにて連載されていた記事です。今回、大森さわこ様と株式会社芸術新聞社様の許可をいただき転載させていただいております。


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スペース・パート3からシネクイントへ



 1981年に渋谷で3つめのパルコが誕生した時、そのビルの8階に映画も上映できる多目的ホール、パルコ・スペース・パート3が設けられた。 


 ミニシアターが、まだ珍しかった時代。このホールは渋谷の先駆的なミニシアターの役割も果たし、ルキノ・ヴィスコンティやグレタ・ガルボの映画祭が話題を呼んだこともあった。 


 しかし、85年のシネセゾン渋谷、86年のシネマライズといったミニシアターが近くに出来ると、スペース・パート3の当初のインパクトは薄れていく。 


 「この劇場の仕事をするようになって、まずここは映画の常設館ではないんだな、ということを思い知らされました」 


 そう語るのはKUZUIエンタープライズで映画宣伝を担当した後、パルコの映像担当となった堤静夫チーフ・プロデューサーである。 


 入社した頃(93年4月)、ジャン=ジャック・ベネックス監督の『ベティ・ブルー/インテグラル』(92、GAGA配給)を上映していて、すごい人気だったが、そのホールではロングランが出来なかった。 


 「最初から7週間と決まっていたんです。毎回、人があふれるほどの人気でしたが、スペース・パート3は多目的ホールなので、最終日の翌日から映画に関係のない展示会が入っていてどうにもなりません。こんな大ヒット作に恵まれたのに、すごくもったいない、なんとかならないだろうか、と思い始めました」 


 ホールとしての限界を感じていたが、すぐに常設館には移行できなかった。 


 「まわりを説得して実現するのに、結局、5年ほどかかりました」 


 これまでスペース・パート3では映画の上映以外に、展示会、芝居、セールなど、さまざまなイベントが行われていたが、芝居チームにはパルコのパート1に〝パルコ劇場〟があるから、という理由で納得してもらい、他のチームも辛抱強く説得することで、常設館を作る計画が進んでいった。 


 ひとつの大きな転機となったのが、目の前のシネマライズで96年に上映された『トレインスポッティング』の成功だ。この作品はパルコが配給権も持っていて、スペース・パート3で封切ることもできたはずだが、あえて常設館のシネマライズに話を振ったという。その結果、33週間上映という異例の大ロングランとなり、当時の渋谷のミニシアターの興行記録を塗りかえた。もし、スペース・パート3が常設館なら、『トレスポ』の運命も、また違ったものになったかもしれない。 


 この映画のヒットから2年後の98年、従来の多目的ホールから映画の常設館への移行が決まり、椅子をこれまでの移動式から固定式のものに変え、床や音響施設などにも手を加えた。 


 翌年7月にスペース・パート3はシネクイントとして生まれ変わることになったのだ。 


 ミニシアター界で遅れをとってきたパルコの逆襲がこうして始まる。 20世紀の最後に渋谷に打って出るミニシアターとして、「どういう位置づけにするのか、劇場のコンセプトを考え直した」と堤プロデューサーは語る。 


 「僕はいわゆるヨーロッパのアート系映画が嫌いだったんです。ヴェンダースの映画とか、何がいいのかさっぱり分からない。『パリ、テキサス』(84)にしても、ライ・クーダーが音楽なので見ましたが、どうも……。シネマライズでかけていたレオス・カラックスやウォン・カーウァイの映画も、ピンとこなかった。でも、KUZUIで入れていたジョン・ウォーターズ監督の『ヘアスプレー』(88)は大好きで、思えばこの作品はスペース・パート3にかけていたんです。そこでエンタテインメント性もあるアメリカのインディペンデント映画を上映する劇場にしたいと思いました」 


 劇場の方向性を決めた後、オープニングの候補作を30本ほどリストアップして各社にアプローチしたが、海のものとも山のものとも分からない新劇場に対して各社の反応は鈍く、「自分で見つけるしかないと思い始めました」。 


 そこでスタッフ一同、改めて情報を集め直して候補作を探した。そんな中にヴィンセント・ギャロの監督・主演作、『バッファロー'66』(98)があった。 


 上映権を持っていたのはカルチャー・パブリッシャーズ、テレビ東京、キネティックの3社。キネティックはシネ・ヴィヴァン・六本木の初代支配人だった塚田誠一さんの新会社で、当社はこの映画に出資もしていた。 


 最初は別の会社が宣伝すると聞いていたが、そこにキネティックが現れ、共同作業に対して不安もあったが、パルコとのミーティングの後、キネティックの若手スタッフたちが堤プロデューサーに駆け寄ってきた――「この映画を絶対にヒットさせたいので、私達を信じてもらえませんか」 。その力強い言葉にひどく打たれるものを感じ、その熱意に賭けることにした。


 そして、この作品をオープニングに決めた直後、パルコのCM担当の宣伝部からは偶然、こんな話も持ちかけられた。 「アメリカのエージェントから、ヴィンセント・ギャロって奴をお宅のCMで使わないか、という話が来ているけど、ギャロって知ってる?」 


 驚きながら、堤プロデューサーは答えた――「知ってるも何も、ギャロの主演・監督の映画で、来年、劇場をオープンするんですよ」


 そこでとんとん拍子にCMの話も進んだ。 「これまで映画の側から、この人をパルコのCMで使ってほしいと提案して決まったことは一度もなかったので、この偶然には本当に驚きました」 


 『バッファロー'66』の宣伝では、ギャロを前面に押し出したプロモーションを考えたが、アメリカではパブリシティに非協力的な人物として知られていて、この監督デビュー作が公開された時は配給元のライオンズ・ゲイトと意見の対立があり、宣伝にはいっさい協力していないことが分かった(それも影響したのか、アメリカでの興行は成功していない)。 


 実際、ギャロが来日してみると、かなりむずかしい性格だったという。 当時の彼には〝スター〟と呼べるほどの知名度はなかったが、来日時は「表紙に出られる雑誌しか取材に応じない」とゴネたこともあったという。 


 そんな彼のハードルの高い要求にも耐えながら、宣伝グループは必死に売り込みを続けていった。 


 「8カ月の宣伝期間がありましたが、毎週、会議を続けましたね。みんな死に物狂いでした。過去にオープンしたミニシアターは、シネマライズにしても、Bunkamuraのル・シネマにしても、一本目は大ヒットではなく、2本目や3本目から当たっています。でも、この時はオープニングからヒットさせるよう社から命じられていて、すごいプレッシャーでした」 



◉大ブームとなった『バッファロー‘66』(98)。ヴィンセント・ギャロの初めての監督作。恋人役を演じたクリスティーナ・リッチの可憐な魅力も話題を呼んだ。




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