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【ミニシアター再訪】第29回 神保町で立ちあがった「ミニシアター」の源流 岩波ホール

【ミニシアター再訪】第29回 神保町で立ちあがった「ミニシアター」の源流 岩波ホール


 神保町の岩波ホールこそは、すべてのミニシアターの原点である。68年に多目的ホールとして始まり、74年にサタジット・レイの作品を上映する常設館として生まれ変わる。


 転機になったのは70年代のルキーノ・ヴィスコンティ監督の『家族の肖像』(74)の大ヒット。その後、テオ・アンゲロプロス監督の『旅芸人の記録』(75)やエルマンノ・オルミ監督の『木靴の樹』(78)といった作品も話題を呼ぶ。


 こうした70年代後半のヨーロッパの映画の成功が、80年代以降の都市部の商業的なミニシアター誕生の発火点となったと言われる(ミニシアターという言葉は一般的ではなく、小劇場と呼ばれていた)。


 そんな岩波ホールの歴史を長年に渡って企画・宣伝を担当してきた原田健秀さんが振り返る。


 絵本作家として受賞歴もある原田さんはこの劇場で『ピロスマニ』(69)を見て、グルジア出身の画家、ピロスマニに心酔し、彼に関する単行本も何冊か出版。また、原田さんの絵は『山の郵便配達』(99)の単行本などでも使われている。


(上の写真の『家族の肖像』のポスターは2017年に当ホールにてデジタル完全修復版がリバイバル上映された時のもの)


※以下記事は、2013年~2014年の間、芸術新聞社運営のWEBサイトにて連載されていた記事です。今回、大森さわこ様と株式会社芸術新聞社様の許可をいただき転載させていただいております。


Index


多目的ホールとして開館



 数ある東京のミニシアターの中で、多くの映画関係者が"特別な劇場"としてあげるのが神保町の岩波ホールである。映画だけではなく、講座やコンサート、演劇などもかける多目的ホールとして産声を上げたのが1968年のこと。


 74年からは映画の常設館となり、以後、40年間に渡って、商業主義に流されず、「いい映画を上映していく」という姿勢を貫き通している。オープンから20年~30年で閉館したミニシアターもけっこう多いが、そんな状況の中で岩波ホールは最高齢のミニシアターとなっている。


 「もし、岩波ホールが渋谷にあったら、こんなに長く続かなかったかもしれないです」


 ホールの歴史をそう振り返るのは約40年間に渡ってこの劇場の企画・宣伝を担当してきた原田健秀さんだ。確かに流行の移り変わりが激しい街、渋谷で、長い年月に渡って同じスタンスを保ち続けていくのは大変だ。


 岩波ホールが問題意識の高い大人の観客のために良質の映画を送り続けることができたのも、神保町という立地条件に負うところが大きいだろう。ホールは千代田区神保町2丁目にあり、ビルが駅から続いているため、雨の日でもぬれずに行くことができる。


 そして、映画が終わった後は書店まわりを楽しめる。三省堂や書泉グランデといった大型書店が至近距離にあるし、その周辺にはさまざまなジャンルの本を取りそろえた多くの古本屋が集まる。古い雑誌のバックナンバーをズラリと揃えた古書店もあり、こうした店にいると、まるで遠い過去に戻ったような気分になる。


 書店だけではなく、大手の小学館や集英社、岩波書店などさまざまな出版社が集まった地域でもある。デジタル主流の現代において、紙の上に刷られた文字や絵の存在が神保町ほど今も誇らしく感じられる街は他にないだろう。


 老舗の喫茶店やレストランなども残っていて、静かにつみ重ねられた時間が心地よく思えるスペースと出会える。


 「ただ、今はいろいろなもののサイクルが本当に速いですよね。神保町でもその店の主人が亡くなったりすることで、消えていく老舗の店が多いです。それでも他の場所より、まだいいのかもしれません」


 原田さんは、毎朝、御茶ノ水駅から神保町まで古本屋をのぞきながら出勤する。今は本の値段が以前より安くなっていると感じる。


 「100円でもかなり掘り出しものがあるんですよね」


 買い手としてはうれしいことだが、よく考えれば本の価値が下がっているともいえるわけで、活字の街の住人にとっては複雑な思いもよぎるはずだ。 そんな原田さんが岩波ホールを初めて訪ねたのは1974年のこと。サタジット・レイの『大樹のうた』(58)を見るため、ビルに足を踏み入れた。


 「できたばかりだったので、とてもきれいなホールだと思いました。当時の僕は日本中を放浪していて、山の中から出てきたようなかっこうでやってきたんですよ。まさにヒッピーでした。その後、人づてにこのホールの仕事を手伝わないかという話が来ました。岩波という名前には、その書店のイメージも重なり、アカデミズム的な印象が強かったので、サブカルチャー寄りの僕でいいのかなと思いつつも、軽い気持ちで入りました」


 74年12月にアルバイトを始め、翌年、正式に社員となった。20代前半の原田さんの上司となったのが、岩波ホールの"顔"となる高野悦子総支配人である。


 岩波ホールの岩波雄二郎社長は高野総支配人の義理の兄にあたり、フランスで映画製作を学んで帰国した彼女に完成したばかりのホールの企画作りを任せた。岩波社長の方針は「よいことなら何をやってもよい」で、高野総支配人は自由に企画を決めていったという(ホールは岩波書店とは別経営)。


 68年のオープン当初は多目的ホールとして使われ、岩波書店主催の「岩波市民講座」やピアノやコーラスの発表会、演劇の上演なども行われた。


 映画に関しては海外の短編映画の上映会やドイツやイタリア等、ヨーロッパの映画史の研究上映も実施され、後の岩波ホールに縁の深いアンジェイ・ワイダ、ルキーノ・ヴィスコンティ、イングルマール・ベルイマン等の作品もすでに上映されている(いわゆるシネマ・クラブ的な活動を行っていた)。



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