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【ミニシアター再訪】第29回 神保町で立ちあがった「ミニシアター」の源流 岩波ホール

【ミニシアター再訪】第29回 神保町で立ちあがった「ミニシアター」の源流 岩波ホール

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映画の仲間



 映画の常設館となったのは74年からで、サタジット・レイの『大樹のうた』はその第1回目の作品だったのだ。


 「この映画の上映に合わせて74年から"エキプ・ド・シネマ"もスタートしたんですが、その頃、高野は大きな責任を感じていて、とにかく、世界の名作を上映していこう、という動きがありました。その頃のスタッフたちは僕と同じように20代が中心で、みんなで夢中になって仕事に取り組みました。あの頃、家には仮眠のために戻っているような状況でした」


 "エキプ・ド・シネマ"(映画の仲間)は当時の日本では上映されない世界の埋もれた名作を発掘する映画運動で、中心人物になったのが、高野総支配人と東宝東和の川喜多長政社長の夫人であり、フィルムライブラリーの専務理事でもあった川喜多かしこだった。


 映画を愛するふたりの女性たちの手で結成された"エキプ・ド・シネマ"が岩波ホールの核となるが、その運動に合わせてホールでは一般の会員も募った(今も2年間、2000円の会費で、誰もが入れるシステムで、料金の割引などの特典がある。会員数は約3000人)。


 それまでサタジット・レイの『大地のうた』(55)のような作品は、アート・シアター・ギルド(ATG)の配給によって日本でも陽の目を見ていた。ATGは川喜多かしこ(当時、東和映画の副社長)、森岩雄(当時、東和副社長)、井関種雄(当時、三和興行社長)の3人によって、61年11月に設立され、一般的な興行がむずかしいと思われる世界中のアート系作品を日本に輸入することで知られていた。


 『大地のうた』はモノクロフィルムによって表現されたインドの庶民たちのリアルな描写が大きなインパクトを残す作品だが、その続編『大河のうた』(56)はATG系で配給されながらも興行的には厳しい結果を残した。そのため、三部作の完結編『大樹のうた』がATG系で公開できない状況になっていたが、そこに救い船として現れたのが岩波ホールだった。


 この作品にほれ込んでいた高野総支配人が公開を決めて、74年の2月にロードショーを行うことになった。商業的には未知数の作品ゆえリスクも大きく、周囲も心配していた。実際、初日には50人しか観客が集まらなかったという。しかし、少しずつ作品のクオリティの高さが浸透していき、4週間後にホールは遂に満席となった。


 80年代以降のパイオニア的なミニシアターも、普通の映画館にはかかりにくい個性的な作品の受け皿となっていくが、そんなミニシアターの発掘精神を最初に見せたのも岩波ホールだった。


 この時から常設館として新たなスタートを切ることになり、埋もれた名作を次々と救いあげていく。



◉「神保町」の交差点から至近の距離となる神田神保町2-1 岩波神保町ビル10Fに所在。近くに多くの歴史ある古本屋も立ち並んでいる。


 「高野はサタジット・レイのことはすごく大事にしていて、その後も彼の作品を何本もかけました。また、フェデリコ・フェリーニやイングマール・ベルイマンといった世界の巨匠たちの未公開作品の紹介や宮城まり子監督の『ねむの木の詩』(74)と『ねむの木の詩がきこえる』(77)、名匠、ルネ・クレール監督の30年以上前の『そして誰もいなくなった』(45)も上映しました」


 また、76年には『フェリーニの道化師』(70)がホールにかけられている。そのプログラムには川喜多かしこ専務理事が"エキプ・ド・シネマ"に関して、こんな文章を寄せている。


 「岩波ホールの高野悦子さんと、『女ふたり』の仕事として始めた"エキプ・ド・シネマ"が、皆様がたから予想以上のご支援を得て、すくすくと育ち、3周年を迎えることができました。実際面のややこしい仕事は高野さんにお任せして外国の映画祭を飛び回っている私は、いささか晴れがましい気持ちです」


 この"エキプ・ド・シネマ"の運動に関しては、主に以下の4つの目標が掲げられていた。


一、日本では紹介されることのない第三世界の名作の紹介

二、欧米の映画であっても、大手の興行会社が取り上げない名作の上映

三、映画史上の名作であっても、何らかの理由で上映されなかったもの、また、カットされ不完全な形で上映されたものの完全版の紹介

四、日本映画の名作を世に出すことの手伝い


 こうした目標は今もホールを運営する後輩たちに引き継がれている。


 また、『道化師』のプログラムにはパリで映画製作を学んでいた高野総支配人の映画の師でもある日本の巨匠監督、衣笠貞之助がホールに関して貴重な一文を残している。彼の幻の名作、『狂った一頁』(26)と『十字路』(28)は75年に岩波ホールにかけられ、大成功を収めた。


 「一風かわった異色映画は、おそらく一般のロードショウ劇場にかけても、かなしいことに、日本では1週間もつのがやっとかもしれない。映画というものに対して、一般がもっている固定観念は、ただ、劇(ドラマ)を見てたのしむものと、きめてかかっている。〔中略〕だからこそ、また、『岩波ホール』の存在意義が一段と光ってくるのである」


 その後もホールは着実に成功を重ね、77年にはアンドレイ・タルコフスキー監督の幻の名作『惑星ソラリス』(72)、ルイス・ブニュエル監督の『自由の幻想』(74)など、普通の劇場では上映できなかった問題作をかけた。


 78年には原田さんの人生を大きく揺さぶる映画、『ピロスマニ』(69)も上映された。


「主人公は実在の画家、ニコ・ピロスマニで、放浪の画家だった彼の人生を描いた作品でした。自分でも絵を描いていた僕の人生を大きく変えた一作です。この映画を見た後、グルジアに興味を持ち、その後、実際に訪ねて、すごく魅せられました」


 帰国後、原田さんは日本グルジア友の会を設立した。その後、絵本作家としても活動するようになり、内外の名誉ある賞も手にしている原田さんは21世紀に出版された絵本『大きな木の家/わたしのニコ・ピロスマニ』と評伝本『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ』(共に冨山房インターナショナル刊)の中でもこの孤高の画家への熱い思いを綴っている。公開時、映画は興行的にも大成功を収めた。



◉76年に上映された『フェリーニの道化師』(70、東宝東和配給)の劇場プログラム。また、フランスの巨匠、アラン・レネ監督の遺作『愛して飲んで歌って』(14、クレストインターナショナル配給)は15年2月に上映された(右)。




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