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『山猫』ヴィスコンティの傑作を貫く並外れた“本物”の精神

『山猫』ヴィスコンティの傑作を貫く並外れた“本物”の精神

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バート・ランカスターという並外れた存在



 メインキャストは、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ、そしてバート・ランカスター。ハリウッド映画では肉体派としても知られるランカスターが上品な「貴族」を演じることに関しては、イメージのギャップが大きすぎて「本当に成立するの!?」と心配にすらなってしまう。




 だが、この従来の貴族のイメージを遥かに超えるサリーナ公爵の存在感こそ、本作の肝なのかもしれない。その様子はランペドゥーサが著した原作からも伝わってくる。冒頭、彼が祈りを終えるときの一節がとても印象深いので抜粋してみよう


 「そうこうするうちに、当の人物、公爵が立ち上がった。巨大な肉体の重みのために床が揺れ動き、その一瞬、人間や建物に対する自分の威信が確かめられたという自負が、澄みきった眼にちらりと浮かんだ」


 「彼は肥満しているのではなかった。ただ無闇と馬鹿でかく、たいへんな力の持主だった」(「山猫」小林惺訳/岩波書店/2008より)


 「薔薇色の肌と蜜色の毛髪」を持ちながら、「並みの人間が住むような家では、シャンデリアの下端にある薔薇形の飾りに頭がついてしまう」ほどの長身で(ランカスター自身も190センチに迫る長身だった)、さらに怒髪天に達すると手元のフォークや匙をひん曲げてしまう。たとえガルバルディ率いる革命軍がその身に迫ろうとも、彼ならばたった一人で100人くらいは容易になぎ倒し得たかもしれない。


 それでいて天文学や数学にも秀でて、権威主義者であり、倫理的厳格さを併せ持ち、誰よりも自らの置かれた立場、そしてこれから自分たちがどうなっていくのかを楽観主義を介さずに分析することができるリアリスト。かと思えば、慈愛に満ちた優しさや、思いがけないセンチメンタルな表情を垣間見せたりもする。




 とにかくブレない。が、とにかく様々な表情を併せ持つ人。それがサリーナ公爵なのだ。ここまで見ていくと、ランカスターがいかにこの役にピッタリの配役であったか、いや、彼をおいて他にふさわしい俳優などこの世に存在しなかったことが理解できる。いつの間にか、2019年に生きる我々も、1963年公開当時の観客と同じく、彼の人間性にすっかり心掴まれてしまっているのである。


 実はヴィスコンティ監督は、最初、プロデューサー陣に押し切られたこのキャスティングに懐疑的だったのだとか。だが撮影が始まるとその印象は見事に覆されていく。


 「ランカスターは、人並みはずれた資質と職業的才能だけではなく、自分の役柄とランペドゥーザの作品を真剣に徹底的に研究することを通じて、この人間像を作り上げたと思います」。「彼は撮影が進むにつれて徐々に内容に入りこみ、その進行とともにだんだんと大きくなってきました」


(ヴィスコンティ秀作集3「山猫」溝口廸夫訳1981年 新書館)


 この後、ランカスターは『家族の肖像』(74)でも再度、主演として招聘された。「サリーナ公爵はヴィスコンティ自身の分身でもある」とよく言われるが、人々にそう思わせるほど彼ら、ヴィスコンティとランカスターには、表現の面で深く通じ合うものがあったのかもしれない。



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