©2021 朝井リョウ/新潮社 ©2023「正欲」製作委員会
『正欲』、「ある視点」部門【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.41】
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『正欲』(23)は傑作です。これだけメジャー感のあるキャスティングで、これだけマイナーな世界をしっかり構築してみせたのは並大抵の手腕じゃないですね。あ、「メジャー/マイナー」っていうのは誤解を招く表現ですね。えーと、カンヌ国際映画祭の公式セクションのひとつに「ある視点」部門ってありますよね。これまで日本の映画界からだと『トウキョウソナタ』(08)の黒沢清監督が審査員賞、『岸辺の旅』(15)で監督賞を、『淵に立つ』(16)の深田晃司監督が審査員賞をそれぞれ受賞されてて、当コラムの読者にとってもなじみ深い用語じゃないかと思うんですけど、『正欲』は「ある視点」部門なんです。一般的に「正しい」とか「常識」であるとかされている価値観と別の、その枠外にはみ出してしまった「ある視点」から物語が紡がれていきます。
冒頭、キャスティングの話をしましたね。まず何といっても地方検事、寺井啓喜役を演じた稲垣吾郎さんです。彼が演ったのは難役です。映画の全体を通して「『正しい』とか『常識』であるとかされている価値観」を代表し、支え切らなきゃならない。ここがグラグラしちゃ映画がグラグラしてしまう。抑えた演技、凡庸で面白味のない人物像。バンドで言えばドラムス等、リズムセクションです。どんなにライブが盛り上がっても走れない。ドラムスが走ったら曲のテンポが変わってしまいますね。だから支え切る。僕は名優だと思いました。あれだけ抑制した芝居しているのに映画全体を間違いなくけん引している。映画の「顔」になっている。それどころか妖しい輝きすら放っている。なかなかこんなスター俳優いませんね。
資料によると岸善幸監督は最初に会ったとき稲垣さんにこう伝えています。
「啓喜はいわゆる大多数の側の人です。もしかしたら、マジョリティーとして観客にいちばん近い感性かもしれません」「観客は、初めは啓喜の感覚で観はじめるかもしれないけど、そのうち啓喜のほうがおかしいんじゃないかと見えてくる作品にしたいです」
『正欲』はまさにそういう映画になりました。見ているうちにこちらの価値観が揺らいでくる。自分が「『正しい』とか『常識』であるとか」考えてきたものに疑いを持つようになる。というのは「ある視点」が映画のなかで提示されるからです。それも映画ならではの大変、瑞々しい説得力を持って。あるいは切実さを持って。
『正欲』©2021 朝井リョウ/新潮社 ©2023「正欲」製作委員会
僕は「ある視点」を具体的に示すことこそ映画のひとつの役割じゃないかと思います。フツーに生きていれば人間は他人の目でモノを見ることができない。「自分は〇〇だけど、他人は違うかもしれない」と気づくことができない。それには想像力や経験や知識が必要です。でも、映画は「他人の目」で世界を見せてくれます。映画館の暗がりのなかで目を凝らしているだけでそれは実現するんです。
もう一人、桐生夏月役の新垣結衣さんの好演にも触れさせてください。最後、稲垣吾郎の検事と対峙するシーンは本当に見せ場ですね。最後の台詞がカッコよくて惚れ惚れするんですが、それは当コラムでは内緒にしておきます。新垣さんも難役に挑んだと思うんです。夏月は「マイノリティ」の美意識というだけでなく、その性衝動の切実さも抱えた女性です。『正欲』というタイトルが「性欲」の一字を変えたものである通り、そこには性的なエネルギーが立ち込めている。立ち込めているからこそ、生きてる、生身の人間の物語なんです。生身の人間のひたむきさ、かなしさがある。新垣さんはそれを心の芯で受け止め演じている。役が血肉を持った人間として立ち現れている。すごいなぁと感心します。
資料によると岸監督は新垣さんのキャスティングにある狙いを持っていたようです。
「新垣結衣さんは、夏月役を考えたときに真っ先に名前が浮かびました。夏月役は、親や世間に知られていない本来の自分との間で苦しんでいる、このギャップを表現するのがとても大事だと思いました。これまで演じた役割が、夏月とは対極のイメージを持たれている人に演じてもらいたかったんです。とても難しい役柄ですが、脚本づくりの段階でも何度か話し合って、全体にも俯瞰の意見をもらいました。役柄の背景とか、感情のピークとか、すごく大切にされている方で、本当に助けてもらいました」
岸監督は本作の演出に「新垣結衣という俳優のイメージ」を使ったということですね。パブリックイメージ。これはとても面白い。例えば降旗康男監督の『夜叉』(85)における高倉健さんを思い浮かべるといいですね。『夜叉』の健さんは小さな港町で暮らす無口な男です。ただ十数年前は大阪ミナミで「人斬り夜叉」と怖れられたヤクザだった。これはキャスティングの妙です。
東映ヤクザ映画のスターだった高倉健の「イメージ」を使った。観客は(今、北の町でどんなに地味に暮らしていても)健さんの姿に死地に赴くヤクザの残像を見ます。「高倉健という俳優のイメージ」は演じた役柄の積み重ねで宝石のように輝く。俳優・高倉健の本当の黄金時代は、この「過去のある男」を演じるようになってからでしょう。『幸福の黄色いハンカチ』(77)の刑務所帰りの男だって、あれほどハマる役者さんは存在しませんね。
という意味では新垣結衣さんの挑戦は、俳優として新時代を切り拓くものかもしれません。『正欲』はガッキーファンには見逃せない作品ですよ。おススメします。
文:えのきどいちろう
1959年生まれ。秋田県出身。中央大学在学中の1980年に『宝島』にて商業誌デビュー。以降、各紙誌にコラムやエッセイを連載し、現在に至る。ラジオ、テレビでも活躍。 Twitter @ichiroenokido
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