 
                                ©2025映画「盤上の向日葵」製作委員会
『盤上の向日葵』、令和の『砂の器』【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.90】
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これは僕一人じゃないと思うんですが、野村芳太郎監督の『砂の器』(74)を強く連想しました。『砂の器』は松本清張の原作を凌ぐとさえいわれる詩情、劇的な構成、格調で日本映画史上、不滅の名作なのですが、『盤上の向日葵』(25)はそれに迫る。僕は先年亡くなった父に見せたいと思いました。父は平凡なサラリーマンで生涯を終えた人で、大した映画趣味もなかったんですが、僕が中学生の頃だったかな、家へ帰るなり『砂の器』を激賞した。どうも公開中の『砂の器』を見てきたんですね。「オレは‥、涙が止まらなかったよ‥、可哀想で可哀想でならなかったよ‥」と、中学坊主の前でまた泣いてるんだ。言っとくけど、僕は見てませんからポカーンですよ。だけど、後に父の言ってることがわかった。『砂の器』はやっぱり力があるんですよ。映画ファンはもちろんですけど、普段映画をそんなに見ない父のような観客の心もグーっと掴んでしまう。
『砂の器』と『盤上の向日葵』には共通項があって、そのいちばんはミステリーだということです。殺人事件の物語なんです。当然、刑事が登場して執念の捜査を始める。観客は物語の進行と同時に謎解きのスリルを味わっていきます。ちなみに『盤上の向日葵』は柚月裕子さんの原作も面白いですよ。
で、ミステリーには2通りあると思うんです。犯人が誰なのか最後までわからないパターンと、犯人があらかじめ観客に示されているパターンですね。犯人探しの類型は一連のクリスティものでイメージできると思います。一方で犯人が示されてる類型は『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』ですかね。犯行自体はトップシーンで明示されている。刑事はその犯人(容疑者)に知恵比べを挑む。謎が「WHO?」なのか「HOW?」なのかの違い、といっても大きくは外れない気がします。
ただ「WHO?」でも「HOW?」でもないんだよ、「WHY?」なんだよ、というミステリーもあるんです。だいたい容疑者の見当もつく。どうやって殺したのかもほぼわかる。だけど、本当に本当なのか。そんなことがあり得るのか。一体なぜそんなことになってしまった?「WHY?」を解き明かすことが最大の謎というパターンですね。まぁ、平たく言えば動機の解明ということなんですけど、もちろん「恨みを持ったから」「カッとなって我を忘れたから」で話が済むわけなくて、その人の半生(生い立ち、家族関係、めぐり合わせetc)が掘り下げられていく。その掘り下げた部分の説得力ですね。いかに「人間」が描けているか。それが読者をうならせ、観客の胸を震わせるものでなくちゃならない。

『盤上の向日葵』©2025映画「盤上の向日葵」製作委員会
で、それって「しょうがなかったんだなぁ」と思ってもらうことでしょ。「殺人事件があった→容疑者はこの人物だ→調べていくとこういう人生があった→しょうがなかったんだなぁ」です。思えばこの展開のオリジンもアガサ・クリスティな気がしますね。「愛ゆえに」犯行が行われる。クリスティの亜流は多くの2時間ドラマとなって、崖っぷちで刑事に追いつめられ、泣き崩れる哀しい女を生んでいる。
『盤上の向日葵』は「しょうがなかったんだなぁ」の典型です。犯罪の謎解きをすることで、「人間」を描いている。その彫りが深い。『砂の器』が「しょうがなかったんだなぁ」を運命として描いたとすれば、『盤上の向日葵』は業として描いていると思います。運命って免責できるんですよね。僕の知人に占い師がいて、本当にメンタルをやられてるお客さんが来たときは、正攻法で占う前に「ああ、それは運命ですね」って言ってあげるんだそうです。お客さんは思いつめている。だから、あなたが悪いんじゃなくて運命だったんだよ、後悔しなくていい、とまず言ってあげる。そうするとお客さんは免責できて、気持ちが軽くなる。これが「ああ、それは業ですね」だったら、占いに来たお客さんは自分の愚かさと向き合うことになります。
将棋の世界に材をとったのが秀逸ですね。業の部分が際立ちます。主人公の上条桂介(坂口健太郎)は彗星のごとく棋界に現れた天才なんです。奨励会を経ないまったくのアウトサイダーながらタイトル戦に名乗りを上げる。その桂介に関わってくるのがもう一人の主役、真剣師・東明重慶(渡辺謙)です。真剣師というのは賭け将棋で食ってる「裏街道の将棋指し」です。日本棋院的な尺度でいえばアマ棋士なんですが、昭和の昔は「新宿の殺し屋」「プロ殺し」といわれた小池重明をはじめ、多くの真剣師が暗躍していた。「東明重慶」は名前の感じからいって、小池重明にインスパイアされた作中人物だと思います。
渡辺謙が好演していますよ。金に汚く、クズとしかいいようのない男なんですが、だからこそというか将棋に淫してるんです。やめられない。東明重慶は桂介のなかに、単なる棋力、才能といったものだけでなく、自分によく似た将棋への執着を見つける。桂介もまた真剣師のダークな世界に魅かれ、そこから将棋の養分を吸い上げるような日々を過ごす。物語には沢山のどうしょうもない人物が登場しますが、桂介も自分の業に気づいている。業は免責できないんです。これ以上はネタバレになるんで黙ります。
冒頭、父の話をしたのは映画ファンだけじゃなく、普段あんまり映画を見ない方にも『盤上の向日葵』をご覧いただきたいからです。秋のひととき、映画館で過ごす時間はいいものですよ。
文:えのきどいちろう
1959年生まれ。秋田県出身。中央大学在学中の1980年に『宝島』にて商業誌デビュー。以降、各紙誌にコラムやエッセイを連載し、現在に至る。ラジオ、テレビでも活躍。 Twitter @ichiroenokido
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