© Langfilm / Bernard Lang AG 2020
『役者になったスパイ』、虚実が反転する風刺劇【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.96】
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面白かったです。こういう温かみのある社会風刺劇はやっぱりヨーロッパだなぁと感心します。邦題の通り、これはスパイの物語です。ただスパイっていうと例えば共産圏の政治スパイとか、ライバル会社の産業スパイみたいに「敵対する外部」から送り込まれるイメージがありますね。この映画に登場するスパイはちょっと違うんです。警察から送り込まれた監視者・密告者。身分としては警官です。スイスのシャウシュピールハウス劇場はリベラルな演劇人の集まりだったわけですが、治安当局に目をつけられるんですね。ヴィクトール・シュエラー君という、小心で気のいい警官が潜入して監視に当たることになる。端役の募集に彼は応募するんですが、色々あって、何とシェイクスピア『 十二夜』の大役を任されることになる。
もうこの設定だけで笑えますね。ドタバタ必至。物語には女優とのロマンスもからんで来ますから、見どころ満載です。ただ僕はこの「スパイ」にこだわりたい。「アルプスの自然」「永世中立国」として平和国家のイメージで語られるスイスに冷戦下、こんな監視体制があったとは。動機は「反共」だったでしょうけど、やってることは東ドイツの「シュタージ(秘密警察・密告者)」と同じです。
1989年、90万人にも及ぶ監視記録(共産主義者だけでなく、緑の党やフェミニストなどリベラル活動家も含む)が公になり、スイス国内で大きなスキャンダルになります。『役者になったスパイ』(20)の時代設定はまさにこの1989年、11月にはベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦の意味合いが根底からグラグラになった年です(劇中、壁崩壊を知るシーンが出てきます)。いいとこ突いてるんですよ。この前後という絶妙のタイミングで、我がヴィクトール・シュエラー君はおっかなびっくり劇場に潜入する。

『役者になったスパイ』© Langfilm / Bernard Lang AG 2020
僕は本作を見る上で、三谷幸喜ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』(2025年10月期、フジテレビ)を思い浮かべました。同じシェイクスピア劇の物語ですね。『役者になったスパイ』は『十二夜』、『もしがく―』は『夏の夜の夢』を演じる劇団&劇場の話です。『役者になったスパイ』は警官が俳優になりますが、『もしがく―』の方はもっとすごい。警官もいればストリッパーも漫才師も占い師、劇場の用心棒もみんなシェイクスピア俳優なる。
たぶん『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』というタイトルを思いつかれたとき、三谷幸喜さんの頭にあったのはシェイクスピア『お気に召すまま』の台詞、「全てこの世は舞台、人は皆役者に過ぎぬ」だったと思います。それは『役者になったスパイ』にもそのまま響いてきます。
難しい言い方をすれば、それはアイデンティティーの物語です。「全てこの世は舞台、人は皆役者に過ぎぬ」として、我がヴィクトール・シュエラー君は当初、どういう役を振られていたか。筋立ては「反共」ですね。モスクワに洗脳され、国家を弱体化させる共産分子を摘発する。そのための監視者・密告者の役です。強引な配役でしたが、彼は命令を受け入れ、劇場に潜り込む。
けれど、潜入した劇場で彼は自由な空気に魅せられる。女優と恋に落ちる。演劇の魅力にとり憑かれる。いつしか「シャウシュピールハウス劇場の俳優という役」の方が自分自身だと思うようになる。そっちの人生を生きてみたくなる。折しもベルリンの壁は崩壊し、「反共」という筋立ての影が薄くなる。時代の歯車によって、彼がけんめいに演じていた政治劇がスーッと消えていくんですね。実際のスイスでは、その後もしばらく反共の政治風潮が続いたようですが、『役者になったスパイ』はその歴史の転回をうまくストーリーに生かしている。1989年の設定というのはそういうことです。
『役者になったスパイ』監督・脚本のミヒャ・レビンスキーさんにも、三谷幸喜さんにも言えることですが、下敷きとなっているのは演劇の強度への信頼と愛情ですね。それなくして、こうした虚実が入り乱れ、反転するような、非常にシェイクスピア的な物語を構想するわけがない。政治より演劇は強いのです。少なくともそう信じる者にとっては。僕ら映画ファンはその魅力的なセンテンスに「映画」を代入してみたくなりますね。
政治より映画は強い。
ロマンチックな願いかもしれませんが、それを信じたくなります。東西冷戦がとっくのとうに終わり、ポピュリズムやフェイクで世界が壊れ始めた現代にあっては。僕らは良い映画を見ましょう。『役者になったスパイ』ならバッチリです。
文:えのきどいちろう
1959年生まれ。秋田県出身。中央大学在学中の1980年に『宝島』にて商業誌デビュー。以降、各紙誌にコラムやエッセイを連載し、現在に至る。ラジオ、テレビでも活躍。 Twitter @ichiroenokido
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『役者になったスパイ』
恵比寿ガーデンシネマ、シネスイッチ銀座、アップリンク吉祥寺、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー中
配給:カルチュアルライフ
© Langfilm / Bernard Lang AG 2020
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