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『大統領のケーキ』、三日月形の舟に揺られて【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.108】
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冒頭から引き込まれるんですよ。高野秀行さんの『イラク水滸伝』(文藝春秋)に出てくる三日月の形をした小舟、「タラーデ」というんだそうですが、そのメソポタミア文明から伝わる舟がイラクの湿地帯を行く。乗っているのはおばあさんと少女です。暗闇のなかを小舟は進む。このトップシーンの圧倒的な説得力です。闇の深さ。水面の暗さ。葦の生い茂る湿地帯です。学校でチグリス、ユーフラテス川と習った「文明のゆりかご」のイメージ。ああ、イラクの映画なんだと感じ入る。
イラクはそれほど縁のない国ですけど、連日のようにテレビで報じられてた時期がありますね。90年代、湾岸戦争の時代です。1990年のイラクによるクウェート侵攻を発端として、91年、アメリカ主導の多国籍軍が対イラク軍事作戦「砂漠の嵐」作戦を実施した。日本は約130億ドルの資金供出と掃海艇派遣などの後方支援を行いました。サダム・フセインというヒゲの大統領を覚えておいででしょうか。映画『大統領のケーキ』(25)の大統領とはサダム・フセインのことです。つまり、舞台は90年代、独裁政権のイラク。小舟に乗っている9歳の少女はラミアという名前です。
ラミアの境遇はあまり深く語られないのです。例えば父親の姿がない。映画のなかでそこは描かれないんですが、見ているこちら側は80年代のイランイラク戦争に関係するのかなぁと何となく考える。とにかく貧しい暮らしです。戦時下で経済がひっ迫するなか、おばあさんとラミアはどうにか暮らしを立てている。
ラミアの学校の様子がとても興味深いです。やっぱり「小国民」を育てようとするんですね。サダム・フセインの肖像が掲げられ、個人崇拝と愛国教育が施される。教師はとても強権的です。で、このストーリーの肝になる部分ですが、サダム・フセインの誕生日を祝う係を振り分けるくじ引きが行われる。独裁政権下で大統領は絶対なんですね。その誕生日にはイラクじゅうの学校で慶賀式典が執り行われる。クラスでくじを引いて、ケーキの係は誰、果物の係は誰、と担当が割り振られる。ラミアは何とケーキを用意する係になってしまった。いちばん目立たないおとなしい子が、いちばん目立ってお金のかかる役を引き当てたんです。

『大統領のケーキ』ⓒ 2025 TPC FILM LLC. All Rights Reserved.
翌朝、ラミアはおばあさんに連れられ、町へ出かけます。その町の情景がとてもいい。映画は一義的にはフセイン体制下の圧政や横暴を告発するものですが、もう一方でノスタルジックなイラクの庶民生活を再現して見せることに注力しています。ラミアは父の形見の時計を持ち、雄鶏(「ヒンディ」と名付けられたラミアの友達です)を抱いている。お金に換えて、「大統領のケーキ」の材料を手に入れるためです。でも、おばあさんには別の考えがありました。もう年老いて、困窮のなかでとてもラミアを育てられない。ケーキの材料も買えない。裕福な家に養子に出そう。もう、今の暮らしをあきらめよう。
さぁ、それからラミアは頑張りますよ。養子に出されることに気づいて、その家から逃亡する。ケーキの材料さえ買えたら今まで通りおばあさんと暮らせると信じて、時計を売ろうと商人に掛け合ってみたり、雄鶏を抱えて奮闘する。本当に必死です。こすっからい社会のなかで少女はあまりに無力です。もう少しで悪い大人の餌食にされそうになる(あれは人身売買ということでしょうか、ロリコンの魔手ということでしょうか)けど、何とか逃れて、同じクラスのサイード(くじ引きで果物係になった子)に出くわし、助け合うことになる。見てるこっちはハラハラのし通しです。何か寓話的なナンセンスでもある。なぜ社会でいちばん無力な存在が、いちばん権力を持った人のためにケーキを用意するのか。
この先のストーリーは申しません。とてもよく出来た重層的な物語です。『禁じられた遊び』(52)のような子どもの映画でもあり、軍政や独裁を描いた映画であり、イラク社会の良いところと悪いところを余さず捉えた映画でもある。子どもの目から見た社会の実相なので、偏りがなく、すべてがそのままなんですね。映画のなかにいわゆるプロの俳優は一切登場しません。リハーサルもなし。だから、一種、疑似ドキュメンタリー的な手法ですよね。ラミア役のバニーン・アハマド・ナーイフさんなどよく物語の全体を知らされず、シーンの積み重ねを演じきったと思います。映画『大統領のケーキ』はつくりものではあるけれど、細部はすべて本当なんです。
本当といえば大統領のケーキのくじ引きの逸話はハサン・ハーディ監督自身が経験した実話だそうです。ハーディ少年は運よく花係を引き当てたけれど、「名誉あるケーキ係」を引き当てた子は結局、用意することができず、退学させられ、少年軍に入隊となったそうです。いちばん貧しく、無力な子どものところにシワ寄せが来るんですね。
文:えのきどいちろう
1959年生まれ。秋田県出身。中央大学在学中の1980年に『宝島』にて商業誌デビュー。以降、各紙誌にコラムやエッセイを連載し、現在に至る。ラジオ、テレビでも活躍。 Twitter @ichiroenokido
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