物語の中からは出られない
Q:「人が生まれてから記憶が始まるのは、言語を覚えてから」という考えから、言語を覚えることはすなわち物語を生み出す力が備わることだと、セミナーでお話しされていましたが、それはつまり、人間は物語を必要としていることなのでしょうか。
村井:必要というよりは、習性として物語化して理解しているんです。この世界は全て物語として理解されているとしか思えない。ロシアとウクライナが戦争になったのも、二つの物語がぶつかり合っているから。「ウクライナはもともとロシアだ!」という考え方は昔からあるし、「我々ウクライナは違う民族なのだ!」という考えもある。当事者は自分たちの考えが真実だと思っていますが、客観的に見ている我々はどちらの考えが正しいかは判断できない。
実は我々日本人も同じで、いま普通に暮らしているこの生活が当たり前だと思っているのは、物語として理解しているから。そういったものが世界を動かしていて、ぶつかり合っている。ぶつかり合いながらも何とか折り合いをつけようとするものの、軋轢もあちこちで起こっている。それは全て、物語を信じすぎているせいだとも考えられるのです。
Q:個人的に「人間はなぜこんなにも物語を求めるのか?」という疑問があったのですが、そもそも人間は物語の中で生きているということなのですね。
村井:その通りです。物語の中からは出られない。我々はそれを描き続けているんです。ソシュールがすごく画期的だったのは、“思考”について思考したということ。自己言及的なんです。なぜ思考が生まれるのか、それを言葉によって生まれていると考えてしまうと、自己言及になっているので正しい根拠が崩れてしまう。逆転の発想で言うと、「我々は世界を言葉で理解している。ということは、この世界は言葉で出来ているのと同じである」という考えに至り、そこから抜け出られないのだということに思い至るわけです。ただ、これが救いなのは「そんなことを考えた人がいた」ということ。そこがすごいんです。思考というのはそこまで考えられるものなのだ。「抜け出られない」ということにまで思い至ることが出来るのだと。でも考えてみると、プラトンとアリストテレスの師匠であるソクラテスも同じことを言っていたんですよね。「私は知らないということを知っている」、いわゆる「無知の知」です。そこで初めて理解できたわけです。理解できないということを知っているのだと。
Q:物語を作り始めるとき、その源泉はどこにありますか?
村井:僕の創作の源は「世界理解」。それが物語作りの第一歩になっています。「世界理解」とは、ものすごく極端な言い方をすると「自分の意思を持っている人間はいない」ということ。自分の意思を持っているのではなく、意思を持たされている人たちの集まりなのだと。その意思を持たせているもののパワーとパワーのぶつかり合いこそが面白い。それが葛藤になったり、新たな悲劇を生んだり、楽しいことを作ったりと、人類はそれを繰り返してこれまでずっとやって来た。その一部を描く上で、今回のテーマはどれにしようかと考えていくんです。
Q:その概念から具体的な脚本に落とし込むまでには、どのようなプロセスを踏まれるのでしょうか。
村井:それはプロデューサーと、企画の話をしてから始まりますね。でも世界中に具体物は溢れていますから、ネタはどこにでも転がっている。またアニメーションの場合は現代に縛られないことも大きいですね。