『ラストエンペラー』あらすじ
1950年。5年間にわたるソビエト連邦での抑留を解かれ送還された中国人戦犯の中に、清朝最後の皇帝、ラスト・エンペラ―宣統帝愛新覚羅溥儀がいた。わずか3歳で清朝皇帝の地位につきながらも、近代化の嵐にもまれ、孤独な日々を送らざるを得なかった溥儀。彼が即位してから文化大革命以降に至るまで、文字通り激動の生涯をあますところなく描き出した珠玉の名作!
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歴史超大作と映画監督
子どもの頃は疑問にも思わなかったことが、成長するにつれて気にかかるときがある。映画の中の言葉もそのひとつだ。「なぜ、彼や彼女たちは英語でしゃべるのか」――古代ローマの歴史劇やキリスト絡みの映画でも平然と英語が使われているのはなぜなのか。ドイツ兵もアジア人も、時には日本人までがアメリカ資本の映画では流暢に英語で話すのである。しかしこうした疑問も、映画を観続けていると受け入れるようになってしまう。
清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の数奇な生涯を描いた『ラストエンペラー』(87年)で使用される言語が英語なのも、壮大なスケールの歴史劇という性質上、世界マーケットを視野に入れなければ製作不可能だけに、必然的に英語が選択されたのだろうと想像がつく。主要な出演者に中国系アメリカ人が多いのも、そうした理由なのだろう、と。
しかし、監督のベルナルド・ベルトルッチはイタリア人であり、撮影現場では英語、イタリア語、中国語が飛び交っていたと聞くと、言語にこだわることに何ほどの意味があるのだろうという気分になる。さらに紫禁城をはじめ中国本土で大ロケーションを敢行しているが、室内シーンはイタリアの撮影所、チネチッタに作られたセットで撮られている。中国から7,000キロ離れた場所で撮られていながら、映画の中にはまぎれもなく中国の動乱期が息づいているのだから、映画にとって人種や言語の違いなど、些細な問題にすぎないと思えてくる。
『ラストエンペラー』©Recorded Picture Company
こうした在り方は、かつてのアメリカ映画を彷彿させる。1950年代末から60年代初頭にかけて、衰退したハリウッドのスタジオは閑古鳥が鳴き、もはや黄金時代は過去のものとなっていた。それでも70ミリのスペクタル歴史超大作で生命線を繋ぎ止めてアメリカ映画は作り続けられていた。それもハリウッドではなく、チネチッタをはじめとするヨーロッパ各地の撮影所で、である。チネチッタでは『ベン・ハー』(59年)、『クレオパトラ』(63年)が、スペインのマドリードに作られたスタジオでは『エル・シド』(61年)、『北京の55日』(63年)、『ローマ帝国の滅亡』(64年)が撮られていた。もちろん、いずれも英語作品である。
また、これらの作品の監督の中にはジョーゼフ・L・マンキーウィッツ、アンソニー・マン、ニコラス・レイらがおり、それまでのフィルモグラフィとは異質の歴史大作を手がけたという点でも、ベルトルッチと『ラストエンペラー』の関係を思わせる。ただし、これらの監督たちの多くが不慣れな歴史大作に翻弄されたことで映画監督としてのキャリアが中断、または終焉を迎えることになってしまったのと違い、ベルトルッチは中国を舞台にした歴史劇を、中国本土とチネチッタで見事に作り上げ、第60回アカデミー賞で作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣裳デザイン賞、美術賞、作曲賞と主要部門を独占した。