穏やかな恋愛劇と過去の傷跡
こうした不思議な男が居る時間の中で、言葉の壁を乗り越えてクリスがサチコへと思いを吐露するも滑稽なすれ違いが演じられる様は、深田作品ではこれまでも想起させることが多かったエリック・ロメール的な展開となり、アチェの穏やかな自然と共にいつまでも観ていたいと思わせる。だが、舞台にアチェが選ばれているだけに、過去の傷跡は穏やかな恋愛劇の中にも入り込んでくる。街中に突如として現れる巨大な船は津波で運ばれてきたものだ。映画では、イルマがサチコを船の甲板へ案内して街を見下ろすというくだりがあるが、小説では、2人の主観で同じ状況がそれぞれ描かれる。サチコは「日本から観光気分で訪れ、津波の傷跡を撫でまわす若い娘をどう見ていたのだろう」と気を揉み、イルマはその時、津波が襲ってきた瞬間を回想している。
『海を駆ける』© 2018 "The Man from the Sea" FILM PARTNERS
生も死も、幸福も絶望も、その差異はごく僅かな違いでしかない。アチェの街を一望できる甲板からの美しい光景は、かつては文明と人を破壊し尽くす絶望的な光景でもあった。ラウもまた、奇跡を起こして命を救う聖人かと思いきや、終盤にいたって、村人たちから村の子どもたちを川に引きずり込んで殺したと追求される。映画では、その前にラウが手をかざすと貴子が倒れる光景を映し出している。それが、どんな結果をもたらしたか――気を失わせただけなのか、何故そんなことをしたのかは描かれない。ラウへの言いがかりのようなものが何だったのかもはっきりしない。それが小説では、はっきりとサチコによって、「ようやくわたしはラウが死をもたらす者であったことを確信した。」と語られ、貴子の死も明らかにされる。もちろん、ラウは海そのものであるだけに、穏やかな顔ばかりでなく、〈死をもたらす者〉であることは自明である。時には理不尽な形で生命を奪うこともある。
映画と小説によって語られる『海を駆ける』は、酷似した物語を異なる視点と時間の奥行きによって照らし出し、双方が互いに魅力的な輝きを発しながら惹きつけ合う。観てから読むか、読んでから観るかではなく、観てからも読みたいし、読んでからもまた観たくなる。
文: モルモット吉田
1978年生。映画評論家。別名義に吉田伊知郎。『映画秘宝』『キネマ旬報』『映画芸術』『シナリオ』等に執筆。著書に『映画評論・入門!』(洋泉社)、共著に『映画監督、北野武。』(フィルムアート社)ほか
『海を駆ける』
2018年5月26日(土) 全国ロードショー
© 2018 "The Man from the Sea" FILM PARTNERS
配給:日活 東京テアトル
※2018年5月記事掲載時の情報です。