小説独自の手法で明かされる秘密
ある一家の中に謎の男が入り込んで来るという深田映画ではおなじみのシチュエーションだが、『淵に立つ』では浅野忠信を、天使か悪魔か、はたまた神かと思わせたが、本作のディーン・フジオカも様々な解釈が成り立つ。彼の正体は、キリストの再来だの、海または津波の化身だの、超能力者だのと想像することになるが、小説をひらくと、たちまち答えが最初に書いてある。この小説は一節ごとに各登場人物の一人称で語られている。サチコ[1]、イルマ[1]、サチコ[2]、タカシ[1]、イルマ[2]、サチコ[3]、タカシ[2]、クリス[1]……といった具合に、時にはひとつの事象がそれぞれの主観で語りなおされることになる。
『海を駆ける』© 2018 "The Man from the Sea" FILM PARTNERS
しかも、クリスのパートは20年後に、サチコと出会った日からの数日間を回想した手紙として挿入されるのだから、映画よりも遥かに時間と視点が交錯した凝った構造になっている。そして、この小説の最初の一節目を飾る固有名詞が〈海〉なのである。さらに次の文章が続く。
思い出してみると、まずは五感から始まった、気がする。みる。きく。かぐ。さわる。えーと、あとなんだっけ、そうだ、あじわう、だ。
やがて彼は手足を認識し、陸に上がる。後にインドネシア語の海を意味するラウと名付けられる男は、どうやらその名のとおり海そのものらしい。だが、彼の正体が何であれ、そこに大きな意味はない。彼は2004年のスマトラ島沖地震での25万人におよぶ死者を弔うために現れたわけでも、新たな警告を発しに来たわけでもない。ただ、若い男女の傍でニコニコと居るだけだ。倒れていた少女を特殊な能力によって回復させたりするので、それを撮影していたイルマはジャーナリズムの世界に売り込めると意気込むが、ベテランの女性ジャーナリストに横取りされてしまう。だが、そこでも劇的な飛躍は訪れない。奇跡を起こす男をめぐる騒動は、記者会見の席に集約されるものの、それ以上の盛り上がりはない。会見場を去るラウが扉を開けると、サチコらの居る家の扉を開けて入ってくるという空間飛躍能力をさりげなく見せつけるだけだ。