反転の跳躍力
父親の婚外子である有子は、小野家で“女中”として扱われる。小野家の主であり企業の社長でもある栄一(信欣三)の娘であることは認められない。義母にあたる達子(沢村貞子)と姉の照子(穂高のり子)はあからさまに有子に敵意を向ける。有子には倉庫のような部屋が用意される。若尾文子が度々インタビューで語っているように、有子はまさしく“シンデレラ”だ。家事手伝いの八重は、すべてを知った上で有子に同情を寄せている。しかしこの映画は“シンデレラ”の物語構造を借りながら、まったく別の表情を見せていく。有子はこの最悪な家でサヴァイヴしていく方法を直感的なまでの早さで発見している。家政婦の八重のことを「センパイ」と呼ぶことで、2人の間に仲間意識が生まれる(ミヤコ蝶々が歌うように台詞を放っていくリズムは、この映画のスピードに多大すぎるほど貢献をしている!)。有子はおそらく小野家の犬にも愛されている。意地悪をしてくるちびっこの弘志は、有子とのプロレスのような格闘に負けることで子分のような存在になる。有子がエプロンを投げ捨てるとき、彼女の戦いは始まる。いざ、一対一のバトルへ。有子は大胆な謙虚さとでもいうべき行動と発言によって服従を拒み続けていく。ここには服従を反転させていく意思がある。
「ただ、スレスレなのね。かわいそうだとか、同情されるとか、そうなるとつまらないわけですよ。だから、どちらにもかかるくらいにやっておかないと。怖くて利己主義でイヤな女だな、という面も半分思わせておいて、だけども、こういう立場になったら、こういう行動をとらざるをえないだろうな、と思わせるという。」(若尾文子)*
『青空娘 4K版』©KADOKAWA1957
上記の若尾文子の発言は『青空娘』についての言葉ではないが、この言葉は増村保造作品における若尾文子の演技を貫いている感覚といえる。ある瞬間に、どちらにも転んでいく、どちらにも反転する跳躍力こそが増村保造の映画の最大の魅力だ。たとえば若尾文子が学生運動のグループの一人を演じているという時点で極めて珍しい映画である『偽大学生』(60)における、加害者と被害者のどちらが監禁されているのか分からなくなっていく密室の強烈な描写。たとえば『清作の妻』(65)における村一番の模範生が、老人の元妾(若尾文子)との出会いによって、これまで信じてきた倫理観を反転させていく様。増村保造の映画がド迫力に感じられるのは、この“反転の跳躍力”にある。甘いムードが急激に辛辣なムードに反転する長編第2作『青空娘』は、そのプロトタイプといえる。有子がエプロンを脱ぎ捨てるショットは繰り返される。御曹司の広岡(川崎敬三)と対決する卓球のシーンは、思わず映画を見ているこちらの体が動いてしまいそうになるほどのド迫力ぶりだ(このとき若尾文子は卓球を習ったばかりだったという)。
編集や技術的なことだけでは“映画のスピード”は生まれないと、増村保造は断言している。映画にはキャラクターの感情のスピードが必要だと。増村保造はフィルモグラフィーを通して、形式と感情のスピードを一致させることを探求した映画作家だといえる。そして“環境に敗北しない個”という増村保造映画における主要テーマは、『青空娘』という作品にも当てはまる。