『PLAN 75』から『ルノワール』へ――生きることを問い直すための「死」
前作にして長編デビュー作の『PLAN 75』と、今作『ルノワール』を並べると、早川千絵監督が持つ引き出しの多さと作風の広さに驚かされる。有り体に言うなら、緻密に設計された社会派の風刺寓話から、記憶とまなざしで紡ぐ詩的リアリズムの世界へと2作目で一気にジャンプしたのだ。だが当然、そこには同一作家のブレない美学と倫理が貫かれていることも確認できる。
『PLAN 75』は超高齢化社会を背景に、75歳以上の高齢者に自死の選択肢を与える制度「プラン 75」が施行された架空の日本を舞台にしている。倍賞千恵子扮する主人公の角谷ミチは、制度の対象者として安楽死の選択を迫られる。つまりシステムという外的圧力による「死」と、その内的葛藤が主題となる。
『ルノワール』© 2025「RENOIR」製作委員会 / International Partners
対して『ルノワール』で主人公の少女フキが置かれているのは家庭という共同体の中だ。今作はフキが自分の葬式のことを作文に書いて学校で発表するという、ぎょっとするシーンから始まるが、彼女の周りには常に「死」の気配が貼りついている。末期癌に冒されている父親・圭司。また学校の友人(高梨琴乃)を誘って、戦時中のB29による空襲の映像(同名絵本をもとにした記録アニメーション『芽吹けミヤコよ』)を鑑賞するシーンも……。「死」は不条理に我々を襲い、親密な関係を引き裂き、当たり前だった日常を破壊してしまう。『PLAN 75』で78歳の未亡人ミチが「死」をめぐる社会システムの暴力性に翻弄されるように、『ルノワール』の11歳のフキは喪失の予感に困惑し、やがて「死」と直面し、未知の世界や自分自身と深く向き合うことになる。早川監督が眼=カメラを向けるのは、こういった小さな個人の内宇宙だ。語られぬ声や想い、あるいは沈黙に耳を澄まし、普段は見えないものに映画という装置で光を当てて可視化しようとする。そして「死」は、生きることの意味を問い直す契機として差し出される。