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『デス・レース2000年』未来を予見した超カルト作が愛される理由は“ブラック・コメディ”にあった!?

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『デス・レース2000年』未来を予見した超カルト作が愛される理由は“ブラック・コメディ”にあった!?

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人間の“暴力性”をあえてブラック・コメディに仕立てた手腕



 強烈なストーリー、アクの強すぎるキャラクターもさることながら、本作の魅力を高めているもう一つの要素、それは特殊な世界観だ。製作当時、’75年のスタッフ陣が思い描いた“2000年”という未来。低予算で製作されたがゆえに背景が明らかな“絵”だったり、スタジアムに溢れる満員の観客の姿などは全く別の映像を差し込んだものであるなど、様々なB級トリックが渦巻く中、徐々に我々はこの映画の描く“ディストピア”ぶりをまざまざと突き付けられることになる。


 そこで判明する事実。どうやら、この大陸横断レースは政府主催イベントであるらしく、冒頭には大統領がお目見えして「子供たちよ!愛する国民よ!人類は歴史上、常に娯楽を追い求めてきた。今ここに、お前たちの求めるものを与えてやろう!」などとスピーチするのだ。どうやら世の中は我々が知る2000年とは違い、かの自由と平等の国アメリカはすっかり独裁国家となり果てた設定となっている。観客も主催者もレースの参加者も三度の飯よりも暴力が大好き。口を開けば「バイオレンス!バイオレンス!」の大合唱。一体全体、こんな世の中に誰がしたというのか?


 原作となったのはイブ・メルキオーが著した短編小説だ。着想は、メルキオー氏がカーレースを観戦していた際に舞い降りた。その時、目の前を疾走中の車が猛クラッシュ。乗っていたレーサーが火だるまになって死にゆく中、観客は慌てることなく、目の前の状況に大歓声を上げていたという。そこで感じた「人間はかくも暴力が好きなのか・・・」という絶望にも似た悟りをテーマに盛り込み短編小説へと昇華させたのだ。


 ただし、この時点で本作は極めてシリアスなテイストだったという。これを一転してブラック・コメディへと仕立て上げたのは他でもない“B級映画の帝王”ことプロデューサーのロジャー・コーマン。出来上がった映画を目にしたメルキオーは、最初はコーマンに「私の原作をこんな風にしやがって!」と不満をぶつけた。しかし後になって「いや待てよ、これは案外、いい映画かもしれないぞ」という気持ちになったのだとか。スタイルは変わっても「人間の暴力性」というテーマはしっかりと残っている。彼には、コーマンを始めとする作り手たちがしっかりと自分の意図を掴み取ってくれていることが非常に嬉しく思えたという。


 なるほど、ここにロジャー・コーマンの巧さが光る。本作には人間の本能的なバイオレンス、エロ、政治批判、社会風刺など様々な過激な要素が埋め込まれているが、コーマンはこれらを決してリアルかつ直接的に突き付けたりはしないのだ。「ブラック・コメディ」という伝家の宝刀を掲げることによって、あえて重苦しくならないように作風を軽量化しつつ、もしくは観客に状況を“俯瞰”する視座を提供するのである。


これによって仮に「不謹慎だ!」と目くじら立てる人がいれば「まあまあ、コメディなんだから」とたしなめることもできよう。「政権批判だ!」と突き上げられれば、「いいえ、未来の話ですから」と逃げることも可能。しかしそれでいて観客の想像力は絶えず突き動かされ、我々はこの荒唐無稽な物語を通じてかえって普遍的なテーマについて思いを巡らすこととなる。これぞコーマンによる最強の映画術と言えそうだ。


 今回のリバイバル上映のように公開から40年を経てもなお劇場で熱狂する観客が後を絶たない理由はそこにある。このブラックコメディならではの独特なテイストが時を経ても一向に古びることのない普遍性をもたらしているのだ。低予算ながらもこういったアイディア一つで、ロジャー・コーマンはいわば、時を超えて生き続ける術を手に入れたのかもしれない。これが10年先でも、50年先でも、本作は変わらぬ信頼と安心のB級カルト作としてその王位に君臨し続けることだろう。



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