現実と妄想の境の扉を開くのはヒロイン・ロキシーの瞳
さて、映画の中で現実とミュージカルシーンとが移り変わる時のキーアイテムとなっているのがロキシーの“瞳”だ。劇中で度々映し出されるロキシーの眼のアップは、現実と妄想を行き来するための扉の役割を果たしているのである。そして映し出されるミュージカルシーンを観れば、世間に対して猫を被っているロキシーという女性が、いかに皮肉屋で、そして自分に都合よく物事を見ているのかがわかる。
面白いことに、ロキシーの妄想にはMCが付いてくる。劇中の名門クラブでバンドリーダーを務めている黒人ミュージシャン(テイ・ディグス)がことあるごとに現れて、これから披露する楽曲の解説をしてくれるのである。ロキシーの脳内では、常に自分はスターであり、誰かが前フリをしてくれた上で満を持して登場するのが必然。ロキシーにとっては華やかなステージにいる自分の幻影こそがリアルであり、しがない夫との貧乏暮らしや刑務所での服役の方が“悪い夢”だと考えている節すらある。
『シカゴ』(c) Photofest / Getty Images
ロキシーという人物は、自分がチヤホヤされること以外はまったくどうでもいい性格で、一種のサイコパスと呼んでいい。そんな身勝手かつロクデナシなヒロインが、自分の欲望を剥き出しにすればするほど輝いていくという倫理観の捻じれが、『シカゴ』という作品の魅力なのである。
ところで、ロキシーの瞳に注目することで、新たに大きな謎が浮上する。例えば映画の冒頭で大写しになる瞳。これはレネ・ゼルウィガーが演じたロキシーのものだが、先ほどの説に倣うなら、この映画全体がロキシーの妄想、と考えることもできるのだ。また、無罪放免を勝ち取ったものの落剝してしまったロキシーとヴェルマが再会して、元殺人犯2人でレビューショーを始めて人気を博すラスト。実はこのシーンの直前にもカメラはゆっくりとロキシーの瞳に寄って行っている。
この大団円と言うべきラストは、果たして現実に起きたことなのか、それともロキシーの「こうあって欲しい」という願望が生み出したファンタジーなのか。監督のロブ・マーシャルは「判断は観客のみなさんに委ねたい」と発言している。このラスト、あなたは“都合がよすぎて現実とは思えない”派ですか? それとも“これほどなりふり構わない悪女たちなら成功するのも当然!”派でしょうか?
文: 村山章
1971年生まれ。雑誌、新聞、映画サイトなどに記事を執筆。配信系作品のレビューサイト「ShortCuts」代表。
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