『ミクロキッズ』と『アントマン』
前述のように、とにかく大きなセットによってミクロ世界が演出されるわけだが、芝生の一本一本が大木ほどの大きさになっていることからも、子どもたちがどれだけ小さくなってしまったかが伝わってくる。頭にチクチク生えた毛まで表現されたアリの大きさからもそれは言うまでもない。さらに道中ではニックが庭に放ったレゴブロックが見つかり、一行はブロックの裏側のチューブ(ブロック同士を重ねて結合する際に表側の凸面が差し込まれる穴の部分)の中で野宿することになるが、日常的にブロックを触っていればこのチューブの中で雑魚寝ができるというのは相当小さいことがわかる。他のものとの対比で縮小度合いを表現するのがとても上手で、全てが巨大化したセットはそのままひとつのアトラクションのようで楽しい。ついにウェインに発見される際、ニックは父親が食べようとしていたシリアルの中に落っこちてしまうのだが、牛乳の湖に浮かぶ巨大なフレークの質感もまたいい感じ。
ところでアリの背中に乗って冒険という絵面は最近見覚えのあるひとも多いのではないだろうか。マーベル・シネマティック・ユニバース作品の『アントマン』では、やはり物質縮小のテクノロジーを身につけたヒーローであるアントマンが、アリの背中に飛び乗れるほどの大きさとなり悪と戦うが、普遍的な日用品や玩具との対比による「縮小芸」のようなものは『ミクロキッズ』をアップグレードしたかのような印象。アナログなセットであれだけおもしろくミクロ世界を描いた『ミクロキッズ』だから、きっと今の映像技術でやるとなればちょうど『アントマン』で見られたような迫力となるのだろう。問題はいかに『アントマン』との違いを持たせるかというところかもしれない。
実は『アントマン』の映画化企画は1980年代から存在しており、奇しくも当時ディズニーによって同じようなテーマの『ミクロキッズ』が進行中だったこともあって話が流れてしまっていたようだ。時は流れて今や『アントマン』もディズニー傘下で映画化されていることを思うと、なんだか巡り合わせを感じる。さらに、マーベルではジョンストンがキャプテン・アメリカの単独作第一弾『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アべンジャー』を監督しているが、もしかしたら、かつて『ミクロキッズ』で監督デビューした彼が『アントマン』のメガホンを取る可能性もあり得たのかもしれない。同じ第二次世界大戦ものの冒険活劇として、ジョンストンの『ロケッティア』をのちの『ザ・ファースト・アべンジャー』の元型と呼ぶこともできるが、『ミクロキッズ』と『アントマン』も同じように並べられたはず。
アントマンは縮小サイズを自由自在にコントロールすることができるが、映画では分子レベルまで縮小すると、量子世界に閉じ込められてしまう危険があるという恐怖も描かれた。延々と縮小を続けることによって時間や空間とは切り離されたほとんど別の次元へと入ってしまうわけだが、それを考えると『ミクロキッズ』の冒険も空恐ろしくなってくる。『ミクロキッズ』は『大アマゾンの半魚人』でも知られるジャック・アーノルド監督作『縮みゆく人間』が着想のひとつでもあるが、そこでは放射能の影響で細胞が収縮して身体が縮んでいってしまう男の悲運が描かれる。主人公は、最終的に誰にも見つけられない大きさにまでなるが、同時に精神的にもある境地に達し、原子サイズにまで縮小する運命を受け入れることになる。ただ小さくなっていくだけではない。空間という概念が曖昧になり、確かにそこにいるはずなのにほとんどいないも同然という不思議な状態は『アントマン』の量子世界とも通じる。スリルに満ちた冒険と、ミステリアスな未知の世界を兼ね備えたミクロものは奥が深い。