「火花」で芥川賞作家となった、お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹。彼が「火花」より先に着手していた小説が、行定勲監督、山﨑賢人、松岡茉優らによって映画化された。
タイトルは、『劇場』(20)。その名の通り、演劇を題材にした恋愛ドラマだ。上京して劇団を旗揚げした青年・永田(山﨑)が、傍らで支え続けた恋人の沙希(松岡)と歩んだ10年を、鬱屈、焦燥、嫉妬、挫折といった“痛み”と共に切なく見つめていく。
驚かされるのは、本作が上辺を掬い取った「小綺麗な映画」では全くないということだ。これまで多くの作品で、恋が持つ“脆さ”を描き続けてきた行定監督が、本領を発揮。狂おしいほどに不器用で不格好な若い男女の恋を、敢えて整えることなく見せつける。
自尊心が強く、傍若無人だが、必死に“表現”と向きあい続ける永田は、どこまでも人間臭い。そして、愚直に彼を信じる沙希は、世間知らずで危うい。にもかかわらず、本作には不思議な優しさと愛情が満ちている。
今回は、苦みと甘みが同居した味わい深い物語を作り上げた、行定監督に単独インタビュー。自ら直訴したという映画化への情熱、山﨑の演技に驚かされた制作秘話や、下北沢という街への想いなど、率直に語ってもらった。
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「映画化しなきゃダメ」と直談判した
Q:自分の話で恐縮ですが、『劇場』を拝見して衝撃的でした。ここまで自分の半生と重なる作品に出会ったことがなくて……。僕も永田と同じで、上京してから演劇をやってた時期があって、ヒロインの名前も元カノと被ってるんです(苦笑)。
行定:そうなんだ。思いっきりおんなじじゃない(笑)。
Q:もはや恐怖でした(笑)。行定さんご自身も、原作を「あまりにも身に覚えがある場面ばかりで胸をかきむしるような思いで読んだ」と語っていらっしゃいましたが、どういった部分に「身に覚えがある」と感じられたのでしょう?
行定:ほぼ全部ですね(笑)。いい思い出は、例えば夕方に大切な人と買い物に行ったことや、そのとき歩いた道など。それ以外は、とにかく当たり散らしてた。何故かというと、ちょっとした言葉が一瞬にして自分の癇に障るんです。
あんなにさっきまでよかったのに空気が一変してしまうくらい、若いころの自分は世の中に対する怒りというか……自分がろくな映画を撮れるわけでもないのに認められないとか、認めてもらってもそれを信じられないとか、「どうせ今だけだろ?」って言ってしまうことが多かった。
Q:なるほど。ご自身が、永田と重なる部分が多かった……。
行定:昔ほど苛立ちをあらわにはしないけど、今でも人のことが気になります。
自分では「芸術」と思ってても、周囲は「好きなことやってる」と思ってるんだろ?という被害妄想がある。実際そうなんだけど……なかなか割り切れないし、余計に社会との矛盾が生まれますよね。そういう至らなさや愚かさが、作り手ならではの性(さが)なのかもしれない。
Q:いや、でもすごく分かります。自意識が強いから表現者なのに、それ故に生じるジレンマですよね。
行定:『劇場』では、そういった部分が男と女の障害になっていく。普通のラブストーリーは、不倫とか家柄とか出自とか、そういったものの“差”を障害として扱ってきたわけです。それこそシェイクスピアの時代からね。
それに対して、本作は自我から生まれたものが障害になっていく。すごく今っぽいというか、日本の映画人や演劇人の“成れの果て”を感じますよね。この話は絶対に映画にしないと駄目だろって、小説を読んだ瞬間に思ったんです。ラストシーンまで鮮明に浮かんで、プロデューサーに「やらせてくれ」って立候補しましたね。
Q:駆り立てるものがあったんですね。
行定:僕自身がシナリオを書いて、映画監督である自分自身の鬱屈した感情を描いても、「そんなの自主映画でやりなさいよ」って言われるのが関の山なんですよ。ただ、これが又吉直樹という“文壇の救世主”が、「最初に描きたかった小説」ということ。
「火花」より自分というものを掘り下げていると思ったし、明らかに半・自生的なものですよね。僕自身と近いものを感じたんです。