上映延期という宿命
Q:配給セミナーから始めたんですか?しかも監督の小松さんが?
小松:はい。配給会社が何をするのか大体わかったので、今度は配給さんに色々アタックしました。北条さんの時と全く同じで、いきなり電話をかけて、会ってもいいと言ってくれる人に会いにいきました。皆さん最初は驚かれるのですが、いろいろ親切に教えてくれました。本当にありがたかったです。
本来は、最初に製作委員会や配給会社という座組みあって、予算などの計画ができた上で、映画が作られます。私のやり方は、その映画のルールからはみ出していたことを思い知りました。
ただ、前回も話しましたが、思春期のユナちゃんのあの瞬間、少子化で閉校する学校、そして、「消えて無くなってしまったけど、小さい時にこういうことがあってな。」と楽しそうに教えてくれた博識の老人たち。親から子に受け伝えながら、なんとかこの土地を守ってきた、そういう風前の灯のような微かで愛おしい光が、今目の前で消えそうになっているように、私には見えていました。
こんな大切な瞬間を今撮らなかったら、もう誰にも残せないとわかっていて、見て見ぬ振りをしていいのか?そして、及川さんの土地を思う気持ちにも負け、想像を絶するほど過酷な道になるのは重々承知の上で、最終的にもうこれは使命だと思って腹を括って進みました。ただ、そのやり方が良かったかどうかは分かりません。
それでも、あのユナと周りの人達の瞬間と想いは、映像に残せたんじゃないかなと思っています。
Q:それで、上映につながっていったのでしょうか。
小松:ユーロスペースにはその後7回ほど通うのですが、北條さんとは、真面目に映画の話をさせてもらったり、世間話をしたりと、本当に今までにない良い経験をしました。北條さん以外にも、映画に関わるたくさんの人に話を聞いてもらったり、誰かを紹介してもらったりと、すごく親切に接していただきました。一関で取材をしたり、キャストを探している時と同じでしたね。
いつもやっている監督の仕事と全く違う日々、初めて会う人、そしてわからないことばかりで、ずっと一人で動いていたので、ものすごく孤独で不安しかなかったですね。でも、ここでも、最初にしたユナちゃんとの約束があったので、なんとか辛くてもやれたんだと思います。
そのうちに、この作品を気に入ってくださる人も増えてきました。途中、NYの映画プロデューサーも助けてくれたりしましたが、最終的には、フィルムランドの永井さんが配給を、FINORの筒井さんが宣伝と、それぞれ担当してくださることになりました。そして、念願のユーロスペースでも流せることが決まりました。本当に感謝しかないですね。
気づけば映画が完成してから、1年半くらい経っていました。
Q:1年半ですか!?長かったですね。
小松:はい。それでやっと上映できると思ったら、今度は新型コロナウイルスの影響で上映延期となりまして…、ようやく今公開出来たという状況なんです。
でもこのタイミングで公開されることは、この作品の宿命だった気がしています。すごいスピードで動いていた経済活動が、新型コロナウイルス禍で強制的に止められたことを経験した今、この作品が上映されることはすごく意味があると思います。