無敵の怪獣と『霧笛』の恐竜
とは言えやはり、全体像が明らかになる東京襲来シーンには文句のつけようがない。着ぐるみそのものの重さにもよる鈍重な歩みは、実際に巨大な生き物が歩いているようだし、モノクロムの色彩の中でその黒いシルエットが浮かび上がってくるのがなんともかっこいい。切り立った山の岩稜帯のような背びれが特にくっきりとした輪郭を持ち、熱線を吐く際にはそれが白く発光するのがおもしろい。モノクロムの中でいかにインパクトを持たせるか、工夫が凝らされていると思う。
背びれを光らせて熱線を吐き出す姿ももちろん好きだが、襲撃シーンでのお気に入りは銀座和光ビルの時計塔の場面だ。時計塔の時報を聞いたゴジラは、少し奇妙な鳴き声を発しながらこれを威嚇するのだが、このとき時計塔と対峙しているのもギニョールである。怒ったゴジラは時計塔を壊してしまうのだが、この一連の場面からはある短編小説が連想される。
SF小説の巨匠レイ・ブラッドベリによる短編「霧笛」は、海に住む恐竜の生き残りが、灯台の霧笛の音を仲間の声だと思いこんでやってくるというお話。最終的に恐竜は「声」の正体に失望して怒り、灯台を崩壊させてしまい、灯台守が命からがら逃げ出すという結末だ。それだけでもゴジラと時計塔のシーンに通じるものがあるが、ゴジラとこの恐竜を結びつけるのはそれだけではない。
この短編は『ゴジラ』公開の前年1953年に『原子怪獣現る』という題で特撮映画として映像化されていて、なんと問題の恐竜は核実験によって眠りから覚めたという設定に脚色されており、さらに灯台どころかニューヨークを襲撃するという展開。仲間を求める孤独な恐竜にさらに悲痛な背景が加わることで、物語に深みが増しているが、もちろんこれは『ゴジラ』のインスピレーション元のひとつである。大好きなブラッドベリの短編とゴジラが結びついていることがわかって、なんだかうれしい。
やはり『ゴジラ』は後の怪獣映画群よりも、こういった怪奇小説や古典的作品の方に近いようだ(『ゴジラ』そのものが古典なのだから当然と言えば当然なのだが)。得体の知れない怪物への恐怖と同時に、未知の領域へと達しつつある科学への恐怖が描かれ、はるか昔から生きながらえてきた存在が現代文明に襲いかかるといった筋書きから、ぼくはメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」や、ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」、そしてユニバーサルによるそれらの映画化作品などを連想する。これらの作品では『ゴジラ』同様モノクロムの画面の中で恐ろしくも悲痛な怪物たちが描かれる。ゴジラは怪獣である以前に、彼らの仲間でもあるのではないだろうか。