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復帰50周年にどんなスタンスで向き合えばいいか【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.2】

復帰50周年にどんなスタンスで向き合えばいいか【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.2】

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 5月15日は沖縄の日本復帰50周年記念日だった。


 沖縄復帰のことはオンタイムで覚えてる。NHKニュースで路線バスが交差点を曲がり切れず電信柱にぶつかったと報じていた。運転手さんが「曲がれると思いました」みたいなことを言って頭をかいていた。一夜にしてアメリカ式の右側通行から日本の左側通行に変わったからプロの運転手さんでも不慣れなのだ。バス会社は他にも停留所の位置を全部変えたりして大変そうだった。


 が、覚えているのはそんなうすぼんやりした記憶だ。あの年は日中国交回復でパンダがやって来たり、大きなニュースが沢山あったと思うのだが、ボケーっと過ごしていた。


 で、問題はその後、大人になってもボケーっと過ごしていることだ。僕は熱心な野球ファンなので、おそらく大概の人より沖縄に行く機会が多い。毎年2月はファイターズの名護キャンプに顔を出した。空港近くのレンタカー店でクルマを借りて、名護は那覇から1時間近く沖縄自動車道を行った北部の街だ。途中の沖縄市うるま市、金武や北谷、足をのばして国頭や大宜味村にも出かけている。リゾートホテルに長逗留するのと違って、自分でクルマを走らせて見てまわった。沖縄戦の慰霊碑、国道の片側に延々つづく米軍基地も見知っている。


 あ、そうそう、いきなり脱線するが、斎藤佑樹がファイターズに入団した2011年2月のことだ。あの年は「佑ちゃんフィーバー」で大変な騒ぎだった。何しろ連日、ワイドショーが生中継をしていた。2011年は翌月、東日本大震災が起きて、皆、2月のことを忘れてしまったと思うが、毎日ワイドショーで日ハムキャンプが見られたのだ。


 名護市内の宿はメディア関係者、ファンが殺到して空きがない。僕は北海道新聞のキャンプレポートの仕事で、若手記者と現地入りした。で、宿は北海道新聞が押さえてくれたのだが、それがとんでもない山の上なのだ。街並みから離れて、山道をどんどんのぼっていく。途中いっぺんも人や対向車と出くわさない。「いや、これ殺人犯が死体を埋めにいくような山中だなぁ」と軽口が出た。そうしたら山頂に国民宿舎のような宿泊施設がポツンとあって、まわりに店なんかないし、その晩はおとなしく寝たんだけど、翌朝、窓から景色を見て仰天したのだ。


 眼下に沖縄北部、本部半島の景色が一望できる。が、それよりも何よりも宿舎の真ん前、せり出した敷地の突端部分に、海へ向けてコンクリートの足場が残っている。どう見ても高射砲の足場だ。相棒の記者と「高射砲だよね…」「砲台の跡でしょうか、ここで迎え撃とうとしたんですかね」と言い合う。「佑ちゃんフィーバー」がなかったら僕らはそんな光景を知らなかった。考えてみれば名護市営球場のある東シナ海側と反対、東海岸側は今、辺野古基地の埋め立てが進められている。


 だから問題は、そのような断片に触れ、考える契機ができたのにボケーっと過ごしてしまったことだ。「日本復帰50周年」にどのようなスタンスを取ればいいかわからない。沖縄の同業者の友人にあわせる顔がない。友人は「祝50周年」ではなさそうなのだ。50年経ってもいっこうに米軍基地がなくならないのにいらだっている。僕も沖縄にあれだけ基地負担が集中してるのは異常だと思う。ロシアのウクライナ侵攻で「台湾有事への備え」の重要度が増したとSNS論客の言を見ることがあるが、(日米安保の枠組みを崩さない前提だとしても)沖縄ばかり負担を強いるのはアンフェアだと思う。


 だから本来、東京都台東区の僕んちの隣りに基地が越してきても文句は言えないんだろうと思う。沖縄では「隣り」どころか住んでいた地区を丸ごと接収された家族がいる。そりゃそうだよなぁと思うけれど、現実にはうちの近所に基地は越して来ないのだ。つまり、「文句は言えないんだろうと思う」は越して来ない前提で言ってるような偽善だ。


 僕は「復帰50周年」の日に特別なアクションは何もしなかった。三ノ輪の「てぃだ食堂」へ行ってソーキそばでお祝いもしなかったし、黙とうもしなかったし、式典のテレビ中継も見なかった。唯一、やったのは夜遅く、日本映画専門チャンネル録画の『サンマデモクラシー』(2021年日本、山里孫存監督)を見ることだった。日本映画専門チャンネルは「復帰50周年」に当たって沖縄テレビ ドキュメンタリーの秀作をまとめて放送してくれた。


『サンマデモクラシー』予告


 『サンマデモクラシー』は公開時、見逃していた作品だ。確かポレポレ東中野で掛かったはず。いや、僕はぜんぜん知らなかったが、復帰前の沖縄で琉球政府(というか実際にはアメリカ軍部が沖縄に設置した琉球列島米国民政府・USCARや、高等弁務官)を相手取り、税金の還付訴訟を戦った魚卸業の女将・玉城ウシというツワモノがいたそうなのだ。当時のキャラウェイ高等弁務官が出した布告に魚にかかる関税という項目があった。で、具体的にどんな魚に税がかけられるか品目が挙げられていたのだが、そこに「サンマ」がなかったのだ。それなのに(根拠のない)20%の関税がサンマにはかけられていた。おかしいじゃないか、税金返せというわけだ。


 知られざる統治下の「サンマ裁判」。玉城ウシを支えた「下里ラッパ」こと弁護士の下里恵良、「米軍が最も恐れた政治家」沖縄民主化の闘士、瀬長亀次郎と役者が揃い、税金の還付訴訟でしかなかったものが、やがて本土復帰運動の大きなうねりへとつながっていく。僕らは沖縄復帰というと「密約」込みの政府レベルのやりとりとイメージしがちだが、大衆運動のつき上げが底流にあった。

 

『サンマデモクラシー』©沖縄テレビ放送


 こういうのは教科書にのらない歴史のリアルだろう。『サンマデモクラシー』はそれを落語あり、ドラマ仕立てあり、口八丁手八丁で面白おかしく見せてくれる。あぁ、沖縄の人らは闘ってデモクラシーを手に入れたんだなぁと教えられる。復帰前、沖縄にあった空気を想像させてくれる。


 僕はこの分じゃ51年目もボケーっと過ごしていることだろう。大した見識もなく役立たずだ。だけど、沖縄と縁があって、本を読んだりドキュメンタリー映画を見たり、少しずつでも知ろうと努めたい。「復帰50周年」は公開1年遅れの『サンマデモクラシー』を見た。見てよかった。



文:えのきどいちろう

1959年生まれ。秋田県出身。中央大学在学中の1980年に『宝島』にて商業誌デビュー。以降、各紙誌にコラムやエッセイを連載し、現在に至る。ラジオ、テレビでも活躍。 Twitter @ichiroenokido



『サンマデモクラシー』

配給:太秦

©沖縄テレビ放送

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