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黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 前編

(c)Photofest / Getty Images

黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 前編

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 「人類は4年毎に夢を見る この創られた平和を 夢で終わらせていいのであろうか」


 これは映画『東京オリンピック』(65)の最後に映し出された文字だ。監督の市川崑はオリンピックが象徴する平和の脆さを直接的に記すことで、平和への願いと危惧を提示した。実際、オリンピックは国威発揚に利用され、戦争によって中断された歴史を持っている。


 1964年10月10〜24日にかけて行われた第18回夏季オリンピック競技大会を記録した映画『東京オリンピック』は翌年の3月20日に公開され、観客動員1950万人を記録した。市川が劇映画で培ってきたテクニックを駆使することで、従来の記録映画にない華麗な映像美が際立つ作品となった。しかし、最初から市川が監督だったわけではない。数年間にわたって黒澤明が監督する予定で準備が進められていた。黒澤もまた平和を力強く訴える作品を、オリンピックを通じて描こうと構想し、画期的な演出を考案していた。当時、『用心棒』(61)、『椿三十郎』(62)、『天国と地獄』(63)と立て続けに娯楽映画の極みとも言うべき傑作を連打していた黒澤が作ろうとしていた幻の『東京オリンピック』はどんな映画で、なぜ実現できなかったのだろうか。


 なお、『東京オリンピック』というタイトルは、1964年6月29日に一般公募7万9千通の中から市川崑が推薦し、オリンピック組織委員会の全会一致で決定したものであり、それまでの呼称はまちまちであり、黒澤が監督だった時代も『東京オリンピック』とは呼ばれていない。本稿では便宜上、〈黒澤版『東京オリンピック』〉の呼称を用いる。


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映画『オリンピア』と禁じられた関係



 オリンピックの記録映画製作を国際オリンピック委員会が義務付けたのは1930年のことだが、黒澤明とオリンピック映画の関係は、1940年までさかのぼる。この年は東洋初の夏季オリンピックが東京で行われるはずだったが、日中戦争が泥沼化する中で開催は返上された。しかし、映画館ではオリンピック人気に湧いていた。1936年のベルリン・オリンピックを記録した映画『オリンピア』(38)が、日本では『民族の祭典』『美の祭典』の二部作となって公開されたのだ。


 当時16歳だった女優の高峰秀子も、主演作『』(41)のロケ先である岩手県盛岡市でこの記録映画を観ている。「私は、画面で水しぶきをあげる前畑秀子に感激し、記録映画の随所に挿入されているチョビヒゲのヒトラーの表情に興味を持っただけ」(『わたしの渡世日記』高峰秀子著/文春文庫)と高峰は回顧しているが、このとき映画館で一緒に観たのが、『馬』の助監督を務めていた若き日の黒澤明である。人気スターと将来を嘱望された助監督とあっては周囲の目も厳しく、高峰によると「『ベルリン・オリンピック記録映画』を二人で観に行ったのが、せいぜい、デートといえるくらい」(前掲書)だったというから、2人にとっては数少ない思い出となる映画になったはずだが、「青年黒澤明にとって、この大記録映画は強いショックだったのか、街の映画館から宿への帰り道、ただ黙々として自分の足もとに目をおとし、私の存在など気にもとめてくれなかった」という。


 3年に及ぶ長期撮影が行われた『馬』の公開後、忙しい2人は同じ映画会社に身を置きながら、なかなか顔を合わせる時間もなかったが、たまに砧の東宝撮影所で会えば、静かで人気のない撮影所裏手の御料林(皇室所有の森林)で束の間の逢瀬を愉しんだという。黒澤と助監督の同僚だった谷口千吉は『産経新聞』(1996年8月28日)の取材に答えて、黒澤から高峰と密会する場所がないか持ちかけられ、親戚宅の一室を2人に提供したことを明かしている。


 高峰の『わたしの渡世日記』によると、昭和16年秋頃、黒澤は高峰の家の近くに仕事部屋を借りたという。ステージママとして知られた母と同居する高峰にとって、近所に密会する絶好の場所が出来たことになる。ところがアパートで会っているところを母に踏み込まれ、さらに新聞にも「黒澤明と高峰秀子が婚約」という記事が出たという。


 実際に高峰と黒澤の婚約が報じられたのは、昭和16年の秋ではなく春のことだ。記事は以下のような内容で掲載された。


「盲腸手術後静養につとめている東宝の高峰秀子、こんど山本嘉次郎監督が話を纏め助監督の黒澤明と婚約、黒澤が監督になってから挙式することになった」(『讀賣新聞 夕刊』1941年4月1日)


 同日の『都新聞』には高峰の写真入りで「デコちゃんおめでた」という見出しが踊っている。内容もこちらの記事の方が詳しい。黒澤が『馬』の助監督を務めたことを記した上で「ロケはもとよりセット撮影にも高峰に対し終始並々ならぬ親身な世話をし続けたのが感じ易い乙女心に響かぬはずはなかった、これを察した山本監督が早速それとなく両人の胸中を打診すると、双方とも是非との希望なので会社の幹部にも諮って斯くは芽出度話となった」とある。


 こうした記事に困惑する黒澤を目撃したのが、助監督仲間だった堀川弘通である。前夜、黒澤と共に飲んで山本嘉次郎の家に泊めてもらった堀川は翌朝、「山さんとクロさんが深刻な顔をして新聞を前にしていた」(『評伝 黒澤明』堀川弘通著・ちくま文庫)姿を記憶している。ということは4月2日の朝だろうか。


 その後、1週間にわたって高峰は母によって自宅軟禁され、その間に大人たち――彼女の母と当時東宝の専務だった森岩雄、そして黒澤の師である山本を交えて善後策が講じられた(新聞で報じられた〈盲腸手術後静養につとめている〉とは、この自宅軟禁の口実なのかもしれない)。やがて、再びこんな記事が載った。


「東宝の黒澤助監督と結婚するなぞと噂を立てられた高峰秀子、目を円くして“冗談じゃないワ、飛んでもない”と憤慨しながらデマ解消に走り廻っている」(『讀賣新聞 夕刊』1941年4月13日)


 2日後の『都新聞』(41年4月15日)では、「人気者故の哀話 デコちゃんの結婚遂に御破算となる」という見出しとともに、婚約が解消に至った真相に迫っている。「面喰らったのは高峰一家、殊に母である」と、婚約解消に母の存在があることを示し、「いい結婚をさせたいのは勿論だが、まだ十八、早い(略)もう三四年はみっちり藝も磨いて貰いたひし、一緒に水いらずの生活も楽しみたいと計畫していた」と心情を代弁した上で、興奮状態になった母は高峰を映画界から引退させると息巻いたという。その結果、「計畫では、高峰の『阿波の踊子』次回作には、黒澤が一本立の監督となり、石坂洋次郎ものを作る筈だったのも全部中止になってしまった」と、黒澤の監督デビュー作は高峰主演映画が予定されていたことを示した上で、「山本監督も八方へ気がねしてこの婚約を解消させた」という。


 こうして2人の淡い恋は終わりを迎えたが、それから20年を経た1960年、黒澤はオリンピック映画の監督オファーを受け、やがて高峰も奇妙な形で映画『東京オリンピック』に関わることになろうとは、2人はまだ知る由もない。



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