ローマでクロサワは何を見たか
オリンピック記録映画の監督へ就任した黒澤は、1960年8月18日にローマへ旅立った。同月25日から9月11日までローマで開催される第17回夏季オリンピック大会の記録映画撮影を見学するためである。この渡伊には東京大会で開会式と閉会式の演出を担当する伊藤道郎、音楽演出の陸上自衛隊中央音楽隊長の須磨洋朔をはじめ200人近い視察員がいた。同時期の8月24日から9月7日まで第21回ヴェネチア国際映画祭が開催されていたことから黒澤には映画祭審査員のオファーもあったようだが、「ローマ・オリンピックを視察して体協へ報告書を出すのが本来の任務だから」(『夕刊 讀賣新聞』60年8月4日)と固辞している。
ローマに到着した黒澤は連日記録映画の撮影に密着していたが、8月30日に記者会見を行い、作り手らしい視点で次のように語った。
「ローマ・オリンピックの記録映画は順調に撮影が進行している。動員されたスタッフは百五十人ていどで、開会式のときはスタジアムの中にカメラ二十台を配置していた。またヘリコプターで入場行進をとっていたが、フィールドの上空10メートルぐらいまで低くおりて撮影したのでしかられていた。大会のラストを飾るマラソンではカメラ三十台を使い、夜間なので照明だけに二十万リラ(十二万円)もかかるとの話だった。こちらの監督のマルセリーニ氏に二回ほど会った。記録映画のねらいの置きどころを、スポーツを通じて世界の人が結ばれるところに置いているといっていたが、わたしも人間を描いていきたい」(『讀賣新聞』60年8月31日)
記録映画に参加するスタッフの人数、キャメラの台数、費用、撮影の問題点などを詳細に挙げているが、黒澤が最も気にかけていたのがキャメラの台数だった。これは就任時から「オリンピックは短期間に広い舞台で行われるんだからカメラも五十台以上いるでしょう」(『夕刊 讀賣新聞』前掲)、「ローマ大会では(略)一競技にカメラを七台使うというから膨大な人数がいるわけで、東京大会では、日本の全映画人の協力をお願いしたい」(『東京新聞 夕刊』60年7月7日)と懸念を表明していたが、やがてそれは大きな問題になっていく。
黒澤映画とキャメラの台数は切っても切り離せない。『七人の侍』(54)で部分的に複数のキャメラを用いて一つのシーンを撮影するマルチカム方式を導入して以来、続く『生きものの記録』(55)で本格的に用い始め、ゴーリキーの同名作を江戸の長屋に置き換えた『どん底』(57)では舞台を長屋付近のみに限定し、オープンセット一杯、室内セット一杯だけ作った上で、3、4台のキャメラを縦横の位置に引きと寄りのアングルで配置して一気に撮影した。編集でそれらのパーツを組み立てるわけだが、1カットごとにアングルを変えて撮るよりも効率的で、実際『どん底』は黒澤映画としては異例の一か月で撮影を終えている。
このマルチカム方式の利点を、黒澤は「第一に俳優がキャメラを意識しなくなること。そのために思わざるなまなましい表情や姿勢が生まれる。第二に、そのため普通の構図では考えつかないような面白い画面効果や、現実的な鋭さがでる」(『世界の映画作家3 黒沢明』キネマ旬報社)と語っているが、これこそドキュメンタリーに相応しい手法であり、殊にスポーツ競技においては絶大な効果を発揮することは、現在のスポーツ中継を見ても明らかだろう。
ただし、黒澤はマルチカム方式が最大の効果を発揮するためには、「撮影にはいる前、リハーサルを完全に行っておくこと」(前掲書)と釘を刺している。オリンピックの場合は、式のリハーサル程度はあっても競技を事前に行うことはないだけに、別の大会にキャメラを持ち込んで検証する時間が必要となる。既に黒澤はその点を見越して「競技の種類も多く、とり直しがきかないというむずかしさがあるので、大会の一年ぐらい前からカメラマンの訓練が必要だろう」(『朝日新聞 夕刊』60年7月7日)と予言しており、〈カメラの台数とリハーサル〉という黒澤のオリンピック映画を成立させるために不可欠な要素が最初期から提示されていた。
ローマへ黒澤と同行したスタッフに、黒澤の助監督をしていた松江陽一がいる。イタリア国立映画実験センターに留学し、帰国後は東宝で黒澤の助監督を務め、来たるべき東京大会の記録映画でも黒澤の助手を務めることになっていた。松江によればローマ・オリンピック会期中の黒澤は、精力的に競技と記録映画の撮影を見て回り、東京オリンピックでも活躍することになるマラソン選手アベベ・ビキラがゴールする際には、夢中になって沿道から追いかけて走ったという。
一方で松江もイタリアの映画界がオリンピック映画をどのように制作しているかを、留学経験を活かして内情を探っていた。「ローマのチネ・チタ(映画都市)には撮影所の隣に国立光学研究所という日劇よりも大きなビルがある(…)。ここで毎日撮影されたフィルムを直ちに現像して行く。その結果を見て技術の研究と訂正もできる。日本ではそんな設備のある大ビルはない。第一何十台という高価なカメラや録音機を保管する場所からしてどうするのかと思う」(『朝日新聞』62年6月19日)と、ローマ大会に匹敵する記録映画を製作しようとすれば、現在の日本映画界では総力を結集しても実現可能かどうか危惧を表明している。黒澤にとってローマ・オリンピックの視察は創作意欲がかきたてられると共に、大きな不安を抱かせるものだったのではないだろうか。